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死ぬことと生きること、今日読んだ本について。

日曜日、今日も本を読みました。
午後は家の中で、夕方は近くの公園で。

"死"というワードはどうしてもネガティブにとられがちで、"生"を前面に押し出そうとする傾向が至る所で見られると思います。

"人生を楽しく"
"充実した毎日を送るために"
"生活を整える"

せっかく生きているのだから、より良く生きたいという考え方は、わたしなりにとても理解できます。
それは喜びや悲しみといった感情を持つ人間にとってとても健全なことで、わたしたちは"生"に目を向けるからこそ夜が来たら安心して眠ることができるし、朝が来たら身支度を整えて、新しい一日をいかに気持ちよく過ごすかを考えます。

けれども生があるから死というものが存在します。死は生からの解放とも言えるかもしれません。これは〈生=辛いもの〉ということではなく、運動会の後の静寂のような、イベントの後の虚無感と言ったら伝わるでしょうか。     苦しい気持ちが強いときほど、死がちらつくことがあります。生きづらくて堪らない日々に、終止符を打ちたくなるのです。

例えば自死を選んだ人の場合、死ぬ間際に何を考えていたのかをその人に問うことはできません。そこには苦しみしかないのか、それとも安堵のような穏やかで安らかな気持ちも存在するのか。
聞いてみたいと思うことがあります。当たり前のようにやってくる生活を自分の意思で断ち切ることは、そう簡単にできることではありません。死を選ぶのは、そして実行するのはパワーが必要です。だからこそ死についてもっと身近に考えてみたい。他人事ではありません。わたしたちはみんな、いつか死ぬのだから。

変わらない毎日、決められたことをやっていれば過ぎてゆく時間、辛かった一日も夜が新しい朝を連れてきてくれる。そうやって自然の摂理に逆らわないことで繋ぎ止められる命もあるのかもしれません。

「死にたい」「消えたい」と訴えたとき、周りの人の気持ちが分かってないねと言われたことがあります。周りの人があなたのことをどれだけ大切に思っているのか、そのことを考えたことがあるのか、と。

当時のわたしは今よりもっと未熟で、小さな石ころにもすぐにつまずいてしまうようなとても脆い人間でした。周りの人が自分のことを大切に思っているから、どんなに辛くてもわたしには生きるという選択肢しかないのか。生きることは強制で、どう生きるのかを決めることはできても、いつ死ぬかどう死ぬかを決めることはできないのか。

こんなことを言うと、特にお子さんをお持ちの方は辛くなってしまうかもしれませんが、わたしは自分の両親に対して、産んでくれてありがとうという感情がありません。
空を見上げて綺麗だなと思うこともあるし、もう一度観たいと思える映画に出会った時のあの何とも言えない高揚感は忘れ難いのに。
この気持ちをこのnoteだけでまとめるのはとてもむずかしいです。

生き方を考えることが世の中に溢れているように、もっと死について考える時間があってもよいのではないかと思うことがあります。生と死は紙一重、生を考えるということは死について考えることでもあります。どちらが上でどちらが下ということでもありません。
どんな人間にも共通していることは、いま命があり、そしてその命はいつか死に変わるということ。いずれやってくる死について考える時間は、たくさんあるようでとても限られているのではないでしょうか。

まだ自分の中で咀嚼しきれていないことばかりですが、本日読んだ本の名前は、古市憲寿の『平成くん、さようなら』。

続きは、またいつか。




最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。