【短編小説】紫色の夜明け
(1)――「キミはもう二度とこの部屋から出られない」
「今からキミを、この部屋に軟禁する!」
猛暑の気配が残る夕暮れどき。
大学で夏休み前最後の講義を受け、スーパーで食糧品を買い、ネット通販で買った諸々の受け取りを終え、ようやく一息つけたところで、彼女は高らかに意味不明且つ不穏な宣言をしたのだった。
「今度はどんな映画を観たんだよ、ユカリ」
僕はスーパーで買った安いカフェラテを飲みながら、それだけ返した。
所謂「ごっこ遊び」が突発的に始まる程度、僕と彼女の間柄で考えれば、特段珍しいことではない。
僕と彼女。
五十嵐紫鶴とユカリ。
人間と守護霊。
十数年前に出会い、それからずっとこの関係は続いている。
だから僕は、これも地続きの日常だとばかり思ったのだけれど。
「わたしは本気だよ、紫鶴。キミはもう二度とこの部屋から出られない」
ユカリが真剣な声音でそんなことを言うものだから、僕は思わず居住まいを正した。
「……それで、今回はどういう設定なんだ?」
「違うちがう、遊びじゃないんだってば」
ぱたぱたと両手を横に振って否定しながら、ユカリはすいっと僕の前まで浮遊してくる。
重力に縛られない守護霊の動きは、すっかり見慣れたそれだ。
僕の目には生きている人間と同じように見えているのに、他の人の目には映らないという現実も、ずっと昔に飲み込んだ。
「本気で紫鶴をこの部屋から出さないつもりだよ、わたしは」
「どうして?」
「それは教えない」
そう言われて、僕は思わず頭を抱えた。
守護霊が男子大学生を部屋に閉じ込めるに至る理由が、全くわからない。
果たして僕は、彼女にここまでさせるほど怒らせる真似をしてしまったのだろうか。ざっと記憶を掘り返してみたが、思い当たるような事案はない。
或いは、積年の恨みだろうか。ユカリとは友好な関係を築けていると思っていたのだけれど、それは僕の独り善がりな思い込みだったのかもしれない。
「別に、怒ってはないよ。そこは勘違いしてほしくないな」
長いこと一緒に居るからだろうか、ユカリは僕の心を読んだように発言する節がある。本人曰く、守護霊にそんな能力はないとのことだから、単に彼女がそういった感情の機微に敏感なだけなのだろう。
「……うわ」
今回ばかりはユカリの言葉を信じきれず、僕は部屋の窓を開けようとした。
しかし、鍵を開けても、窓は開かない。見えないなにかに押さえつけられているかのように、微動だにしない。それは、玄関のドアも同様だった。
いや、まだ希望を捨ててはいけない。僕の力で開けられなくとも、誰か別の人なら、或いは可能かもしれないじゃないか。
そう思って友達に連絡しようとスマホを取り出したが、うんともすんとも言わなくなってしまった。バッテリーはまだ残っていたはずなのに、どのボタンを押しても全く反応がない。大学生の一人暮らしに固定電話なんてあるはずもなく、僕は呆気なく外部との連絡手段を絶たれてしまった。
こうなってしまえば、僕はこのワンルームに閉じ込められてしまったと認めざるを得ない。
「ね? これでわかったでしょ。わたしは本気なんだって」
思わずしゃがみ込んだ僕に、ユカリは後ろからそんな言葉を投げかけた。
「……マジ寄りのマジ?」
「マジ。大マジ」
不幸中の幸いは、食糧を買い込んできたばかりだということか。あれだけあれば、しばらくの間は外に出られなくとも、餓死することはない。
「……ん? なあ、もしかして、この間から僕に防災の話をしまくって、今日スーパーで保存がきく食品を大量に買わせたり、あまつさえ、室内ゲームの熱いプレゼンをしてネット通販であれこれ注文させたのって……?」
「そのとおり。全てはこの為だよ」
恐る恐る尋ねた僕に、誇らしげな笑みを浮かべ、ユカリは答えた。
計画は数日前から始まっていたということか。どうやら、まんまと術中に嵌っていたらしい。
「どうしてこんなことするんだ?」
再度投げかけた僕の質問に、ユカリは、
「教えないって言ったでしょ。今はまだ秘密」
と、有無を言わせぬ微笑みで返したのだった。
(2)――「駄目でしょ、紫鶴」
「わーい連続で大富豪! やったーっ!」
その日の晩、僕は僕を軟禁している張本人と、トランプゲームに興じていた。
いつもどおり夕飯を食べ。
いつもどおり、守護霊のユカリと遊んでいる。
「富豪はユカリちゃん三号、貧民はユカリちゃん二号、大貧民は紫鶴ー!」
正確を期するなら、「守護霊たち」か。
大富豪で遊ぶにあたり、流石に二人じゃ楽しくないだろうと苦言を呈したら、ユカリは指を鳴らして分身を二人出してきたのである。
守護霊として僕を護るために、ある程度は物に触れたり、干渉できたりするのは知っていた。だからトランプを手に持つことくらいでは驚かなかったけれど。分身能力があるなんて、流石にそれは初耳だぞ。
「十回連続で大貧民になっちゃった紫鶴が可哀想だから、そろそろ別のゲームにしよっか。次はなにやる? 神経衰弱?」
「いや、一旦休憩にしよう。僕、お風呂に入ってくるよ」
同じ姿の奴を三人相手取っているだけで、僕の神経は既にかなりすり減っていた。このあたりで一度休憩を挟まないと、僕の精神状態が危ぶまれる。
「おっけー」
ユカリは軽い調子で頷くと、再びパチンと指を鳴らして分身を消した。溶けるように、霧が晴れるように、あっという間にいなくなる。
「紫鶴、きちんとお湯に浸かってくるんだよ。夏だからってシャワーだけで済ましちゃ駄目だからね」
「わかってるよ」
「肩まで浸かって、百まで数えるんだよ」
「はいはい」
風呂に入る準備をするため、居室と風呂場を行き来する僕に、ユカリはそんな声をかけてくる。こんな声かけは大学入学を期に一人暮らしを始めた春以来かもしれない、なんてふと思い出す。あの頃は、ユカリのおかげでホームシックになることもなく、スムーズに新生活のスタートを切れたものだ。
そんなことを考えながら浴室に入り、髪と身体を洗ってから、湯船に浸かる。
ユカリとの出会いは、今から十五年ほど前――僕が四歳のときのことだ。
流石に当時の記憶は朧げだ。しかし病院の中庭に居たユカリと目が合い、手を差し伸べたことだけははっきりと覚えている。あの日からユカリは僕の守護霊として、ずっと隣に居続けてくれている。
健やかであれと、慈愛に満ちた眼差しと共に、ユカリは僕を見守ってくれていた。
学校の宿題で手こずっているときは、僕が理解できるまで根気強く教えてくれた。
人間関係で困っているときは、たくさんのアドバイスをしてくれた。
そして、日常のあらゆる危険から、ユカリは僕を護ってくれた。
だからこそ、今回の軟禁は、本当に意図が読めない。これまで一度たりとも、ユカリが僕を陥れようとしたことなんてなかった。ユカリは悪ふざけでこんなことをするような人間ではない。だから必ず、なにかしらの理由があるはずなんだ。どうしてか、本人はその理由を話したくないようだけれど。
「理由……。理由なあ……」
口では怒ってないと言っていたが、実は本当に怒っているんじゃないだろうか。だとすれば、僕が謝れば状況が一転する可能性だってあり得る。だがその為には、彼女が怒っている原因を究明する必要があるのだ。
「紫鶴ぅー? 溺れてなぁいー?」
と。
浴室の外からユカリの声がした。
肉体を持たない霊体だから、基本的に壁なんてすり抜けて移動できる彼女だが、壁に顔を突っ込んで直接見てくるような真似はしない。ユカリ曰く、小さいときは一緒にお風呂にも入っていたそうだが、僕だって二十歳目前の男である。そのあたりは尊重していただきたい。
「だ、大丈夫!」
慌てて返事を返すと、ユカリは、良かった、とだけ言って浴室から離れて行った。
ユカリを欺いてまで脱出する気は毛頭ないが、なにがきっかけで状況が悪化し、軟禁から監禁に変わるともわからない。さっさと戻るが吉である。
「おまたせ」
「おかえり」
パジャマを着て居室に戻ると、ユカリはそれまで観ていたテレビ番組から目を離し、のんびりと返事をした。
「え、テレビは観られるのか?」
「当たり前じゃん」
「へえ」
外部へ連絡ができるか否かが境界線なのだろうか。ともあれ、今夜は楽しみにしていたドラマの放送日だったから、テレビを観られるのは有り難い限りだ。
「あ、こら紫鶴」
ユカリの隣に座った途端、むっとした声音で名前を呼ばれた。同時に、ずいっと顔をこちらに近づけてくる。
「な、なに」
一瞬だけ、ユカリに対して「怖い」と思った。
平常心、平常心だぞ。
僕は頭の中で米の品種名を唱えながら、ユカリの行動を見守る。
現在進行系で僕を軟禁しているユカリではあるが、彼女の根本的なところは変わっていないはずなんだ。
ユカリが僕を傷つけるはずがない。
僕がユカリを疑うなんて。
ユカリを怖いと思うなんて。
そんなこと、絶対にあってはならない。
ユカリは眉間にシワを寄せ、さらに一歩、近づいてくる。
「駄目でしょ、紫鶴――」
目の前まで迫り、じっと僕の目を覗き込んで、ユカリは言う。
「――髪の毛、ちゃんと乾かさないと。夏でも風邪はひいちゃうんだから」
「……ごめん」
「ふふ、なにビビってんの?」
「ビビってねえし」
誤魔化すようにそう言って、僕はそそくさと洗面所に向かった。ドライヤーを取り出して、熱風で髪を乾かしていく。
断じて、ユカリに物怖じしたわけではない。
それよりも重要な事実に気づき、僕は愕然としてしまっていたのだ。
ユカリが僕の目の前に迫った、あのとき。
僕は、彼女の顔を真正面から見るのが久しぶりであることに、気づいたのである。
ふんわりと巻かれた前髪や、胸元まで伸びる黒髪。少しだけ紫がかった瞳。いつも楽しげに裾が揺れる、黒を基調にした花柄のワンピース。下ろしたてっぽい白のパンプス。
霊であるユカリは、髪も伸びないし歳もとらない。ずっと二十歳前後の姿のままだ。
変わらない彼女に、見慣れすぎていて。
いつしか、顔すらまともに見なくなっていた。
ずっと隣に居てくれるからといっても、それは甘え過ぎな気がした。
ユカリが怒っている原因は、この辺りなのだろうか。だから、夏休みに入ったことを期に、こうして僕を軟禁し始めたのかもしれない。
それならユカリが満足するまで軟禁に付き合っても良い――否、ユカリが用意したこの時間を有意義に使わせてもらいたいと、そう思う。
「ん?」
背後から気配がして、振り返る。
洗面台の鏡に映らないユカリの姿が、そこには在った。
「――――」
「え、ごめん、なに、聞こえない」
ユカリがなにか言葉を口にしていたようだが、ドライヤーの音に負けてしまい、聞き取れなかった。
ドライヤーを止めて、改めて聞き直したが、
「大したことじゃないよ」
と言って、ユカリは微笑むだけだった。
なにかを誤魔化しているように見え、追求しようとしたのだが、ユカリは、それよりも、と僕に時計を確認するよう促す。
「ドラマ、もうすぐ始まるよ」
「え? あ、本当だ」
時刻は、ドラマ開始一分前になっていた。
急いでドライヤーを仕舞い、テレビの前にある座椅子に座って待機する。
軟禁生活一日目は、いつも通りの穏やかな夜で終わりを迎えた。
ひとつ、僕の心に影を落としたこと以外は。
(3)――「それ、食べられそう?」
翌日。
僕はスマホのアラーム音で目を覚ました。
夏でも朝のうちなら、まだいくらか涼しい。部屋の換気をするなら、この時間に限る。
まだ半分寝ている頭で、それでも朝のルーティンとして窓を開けようと手を伸ばしたところで、
「おはよう、紫鶴」
と、横からユカリの声がした。
「ん、おはよ」
きちんとユカリの目を見て挨拶をしよう。
そう思って視線を合わせようとするが、まだ目が開ききらない。
「朝の換気なら、もう終わってるよ」
「え?」
「紫鶴が寝てるうちに窓を開けて、換気が終わったから、もう閉めたの」
「そっか。……ありがと」
「うん」
けろりとした笑みを浮かべ、ユカリは頷いた。
日が変わっても、軟禁は継続しているらしい。
「ユカリ、今日はなにして遊ぼうか?」
背伸びをして、朝食の準備に取り掛かる。
自分で言っておいてなんだが、今日はなにして遊ぼうか、なんて言うのは久しぶりだった。
「朝ご飯を食べたら、対戦ゲームしようよ」
「テレビゲームのほう?」
「そうそう。あのパズルゲームの対戦、わたしもやってみたかったんだよね」
「あれ、ユカリとやったことなかったっけ?」
「ないよー。あのゲームは、紫鶴が大学の友達とやってたやつじゃん」
「あー、そうだっけ」
気まずくなって、僕はあからさまにお茶を濁した。
小学生の頃は、毎日一緒に遊んでいたのに。
中学生になったら、勉強と部活に熱中していて。
高校生になったら、友達と遠出して遊ぶようになった。
大学生になってからは、課題にサークル活動にと、いろんな人といろんな場所に行っている。
年々、ユカリとの時間が減っていたことは確かだ。
どうしてかといえば、部活や勉強という、やるべきことが増えたことが一番の原因だろう。学生という身分では、どうしてもそこに重きを置かざるを得なくなる。
だけど、たとえ部活と勉強の両立が難しかったとはいえ、いつも一緒に居るユカリと急に遊ばなくなるものだろうか。いや、実際そうだったのだから、疑問を抱くほうがおかしいのだけれど。
極端な変化が起きたときは、なにか明確なきっかけがあったと考えたほうが良い。とはいえ、なにかって、なんだろう。
記憶をゆっくりと辿ってみるが、該当するものは出てこない。ユカリと楽しく遊んでいた記憶ばかりだ。いや、でもそれって――
「――紫鶴! 目玉焼き、焦げちゃう焦げちゃうっ!!」
「え? あ、わあああ!」
ユカリの大声で我に返り、それから焦げついた臭いに驚いて、悲鳴を上げた。慌てて火を消し、フライパンの中身を確認する。
「それ、食べられそう?」
「……たぶん」
ぷすぷすと不穏な煙を上げてはいるが、まっ黒焦げの消し炭になったわけではない。それに、軟禁されている現状を鑑みれば、卵という生鮮食品を捨てるのは、あまりにもったいない。焦げている程度であれば、食べておきたかった。
「いただきます」
今朝のメニューは、目玉焼きと白米、白菜の浅漬け、インスタントの味噌汁。思い起こせば、この白菜の浅漬けだって、二週間ほど前にユカリからおすすめされて作り始めたものである。それまでは漬け物を作るなんて、考えたこともなかった。やってみたら存外簡単で、以降頻繁に作っているわけだが、これも軟禁を始めたら生鮮食品の確保が難しくなることを見越していたのかもしれないと思うと、少しだけぞっとする。
「ごちそうさまでした」
食事を終え、食器を片づけて部屋に戻ると、ユカリは既にゲームのセッティングを終えて待機していた。あとは僕がゲームの対戦ルールとキャラクターを選べば、すぐ開始できる状態になっている。
「ユカリ、操作方法は大丈夫なのか?」
僕は対戦ルールとキャラクターを選びながら、そう尋ねた。
「紫鶴がやってるのを見てたから、操作方法はばっちりだぜ!」
言って、親指を立てるユカリ。
「おっけ」
少し心が痛む話だが、操作に問題がないのなら重畳だ。
「それじゃあ紫鶴、いざ尋常に――」
「勝負だ!」
ゲームキャラクターの台詞になぞらえ啖呵を切り、戦いの火蓋が切られたのだった。
(4)――「もう良いんだよ、紫鶴。わたしは納得してる」
それからも、軟禁生活は順調に続いた。
朝、目が覚めたら朝食を食べて、ユカリと遊び。
昼、昼食を食べて、軽く体操で身体を動かしてから、ユカリと遊び。
夜、夕飯を食べて、ユカリと遊んで、眠りにつく。
遊びのネタは思いの外尽きることなく、遂に軟禁生活は六日目を迎えた。
「……んん」
夏の生温い風が、部屋に吹き込んできた。
相変わらず、朝の換気は僕の起床前に行われている。昨日まではその気配に全く気づけなかったが、どうやら今朝は、僕の目を覚まさせるほど風が強いらしい。
「あ、ごめん、起こしちゃったね」
僕が起きたことに気づくと、ユカリは即座に窓を閉めた。
そうしてふわりと僕のところへ移動してくる。
「起きるには少し早いよ? もう少し寝る?」
言いながら、ユカリは僕の頭を撫でた。
「んんん……」
覚醒しかけた意識は、そんな風に優しく撫でられると、再び微睡みに戻っていきそうになる。子ども扱いするなよ、と抗議する気も起きない。
「なあユカリ……前にもこうしてくれたこと、あったっけ……?」
ぼんやりする頭は、思ったことをそのまま言葉にした。
元々、ユカリはあまり僕に触れようとしない。小学生の頃にそれを指摘したら、哀しそうに微笑んで「だって、気味が悪いでしょ」と答えたのである。もちろん僕は否定したけれど、ユカリはその主張を変えようとはしなかった。
ユカリはそれくらい僕に触れないように意識しているのに、どうして僕は今、ユカリに頭を撫でられ、懐かしいと感じているのだろう。どうしても思い出せない。
「……紫鶴が小六のときに、一回だけ」
「小六……?」
「あはは、覚えてないか。あのとき、四十度近い高熱だったもんね」
「それって、秋くらいのこと?」
「そうそう」
なんとなくだけれど、高熱にうなされていたことは覚えている。ユカリなりに心配して、看病してくれていたのだろう。
――学校の友達に、怖いって言われた。
と。
断片的な記憶が、不意に蘇る。
数日間に及ぶ高熱で弱気になった僕は、意識を朦朧とさせながらユカリに泣きついたのだ。
思えば、昔から同級生には距離を取られていたのだろう。だけど僕の隣にはいつもユカリが居て、寂しいなんて思う隙さえなかった。
怖いと言われたのだって、面と向かってのものではない。
放課後、ユカリと公園でかくれんぼをしているとき、たまたま公園に居合わせた同級生達が言っているのを、偶然耳にしてしまったのだ。
――紫鶴君って、いっつも一人だよね。
――なんにもないところに向かって、ずっと一人でぶつぶつ言ってたぞ。
――うええ、怖過ぎ。意味わかんね。
ユカリに聞かれなくて良かった、と当時の僕は安堵すると共に、このことは絶対に彼女には話さないと心に決めた。その決意も虚しくユカリにこのことを零してしまったのは、いくら体調が悪かったとはいえ、小学生の僕が未熟であったことの証左だろう。
あの日。
僕がたった一言弱音を吐いてしまっただけで、ユカリは全てを理解したように、ごめんね、と言いながら僕の頭を撫でたのだ。
そうだ。思い出した。
あの日を境に、ユカリは僕と遊ばなくなったんだ。
守護霊として僕の傍に居続けてくれたけれど、積極的に同級生と交流するよう促すようになった。だから中学生になる頃には僕にも友達が増え、学校で浮くことなく過ごせるようになっていた。
勉強や部活が忙しかった所為じゃない。
ユカリが意図的に僕と距離を置いたからだったんだ。
「……謝る必要なんてないんだよ、紫鶴」
ユカリは、僕の心を読んだように言う。
その声音は、子守唄のように穏やかだ。
「あの頃、わたしは紫鶴に甘え過ぎてたんだ。わたしが視えてる紫鶴と遊ぶのが、楽しくて仕方なかった。その所為で、自分の存在意義を忘れちゃってたんだよ」
ユカリはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「わたしはキミの守護霊だから、キミを傷つけるような存在にはなりたくない。だからあのときの選択が間違っていたとは思わないし、あの日以降の紫鶴の行動は、絶対に正しいんだよ。大丈夫だいじょうぶ、紫鶴はもう、わたしが居なくても、一人でも、きちんと生きていける」
「……それが、この軟禁の理由?」
まるでもうすぐ居なくなるかのような口ぶりに、僕は間違いであってくれと祈りながら、そう尋ねた。
「うん」
果たして、ユカリは僕の想いも虚しく、肯定した。
「この間、カミサマみたいな人がわたしのところに来て、言ったんだ。守護霊として在れるのは、守護している人間が二十歳の誕生日を迎えるまでだって」
「それって――」
ユカリはくだらないことで嘘はつかない。だからこの告白は、紛うことない事実だ。
だからこそ、僕は彼女の言葉に血の気の引く思いがした。
だって僕の誕生日は、明日だ。
「もう良いんだよ、紫鶴。わたしは納得してる」
「でも」
反論しようとする僕の口元に指を当てて、ユカリは言う。
「一回死んじゃってるからかな、不思議と、消えることを怖いとは思わないんだ。だからきっと、大丈夫」
そう言って、ユカリは再び僕の頭を撫でる。
触れられている感覚は確かにあるのに、その手に温もりは無い。むしろ、冷たく感じるほどだ。だけど僕にとっては、これほど安心するものは他にない。それなのに。
「この軟禁は、わたしの最後のわがまま。消えちゃう前に、あの頃みたいに紫鶴と遊びたかったんだ。付き合わせちゃってごめんね」
「良いよ、気にしてない。僕も楽しかった」
「そっか」
ユカリは柔らかく微笑むと、片手で僕の視界を覆った。
「もう少し寝よっか、紫鶴。目が覚めたら、また一緒に遊ぼう」
「うん」
窓の外ではセミが鳴き始めていた。
夏の盛りに、ひとつの終わりが近づいている。
(5)――「ぎゅって、ハグしても良いかな」
二度寝から起きて、それから、ユカリとたくさん遊んだ。
軟禁前に買ったゲーム類は全て制覇し、特に面白かったものは何度も繰り返して遊び。ゲームに疲れたら、休憩がてら映画やドラマを観る。それはこれまでの五日間となんら変化のない過ごしかただった。
ただひとつ変化があったとすれば、僕の心構えだろうか。
後悔のないように。
記憶に残るように。
そうこうするうち、時間はあっという間に過ぎ去り、時計の針は二十三時半を示していた。
ユカリが消える最後の瞬間まで一緒に過ごしたい。
そう伝えると、ユカリは喜悦と気鬱が入り混じった表情で、そっと窓を開けた。
開け放たれた窓からは、生温い夜風が入ってくる。虫が集まってこないように部屋の電気を消すと、室内は途端に真っ暗闇に包まれた。外の街灯の明かりが、ぼんやりと僕らの姿を照らし出している。
「僕の誕生日を迎えるまでって言ってたけど、それって日付が変わった瞬間にユカリが居なくなるってことなのか?」
二人してベッドにもたれかかり、肩を合わせ。
しばらくの沈黙の後に、僕は今日一日ずっと心の中で燻っていた疑問を、ユカリに投げかけた。
「それはないよ」
僕の不安もよそに、ユカリはけろりと否定する。
「紫鶴の誕生日は、あくまでも目安。零時きっかりに消滅するってことはないから安心して」
「そっか」
僕はそれだけ言って頷いて、ユカリのほうを見た。
「なあに?」
視線に気づいて、ユカリも悪戯っぽい笑みを浮かべながらこちらを向いた。
「今日までありがとう、ユカリ」
彼女の瞳を見据えて、僕は言った。
どんなに言葉を尽くしても、これ以上のことを僕は言えない。心の底からの感謝の気持ちをその言葉に詰め込んだ。消えないでくれ、なんて本音は飲み込んで。
「それはこっちの台詞だよぉ」
ユカリは少しだけ声を震わせながら、そう言った。
暗い室内でも、その僅かに紫がかった瞳は美しく輝いているように見える。
「四歳のキミがわたしの手を取ってくれたあの日から、わたしは呆然とこの世を彷徨う幽霊から、キミを護る守護霊に成れた。そうしてわたしに『ユカリ』という名前をくれた」
彼女の名前を考えた日のことは、僕もはっきりと覚えている。
物心がつく頃には傍に居た彼女を、僕は初め「お姉ちゃん」と呼んでいた。自分の周りに居る大人が「お父さん」や「お母さん」なのだから、それは至極自然な流れだったと思う。それに彼女は僕にしか見えない存在で、二人の間で会話が問題なく成立していたというのも大きい。なにより、本人も当時は気にしていないように見えた。
呼称が変化するきっかけとなったのは、小学校に入学して間もない頃だった。クラスメイトが上級生を名前で呼んでいるところを目撃し、ようやく「お姉ちゃん」にも名前があるはずだと思い至ったのである。
しかし当の本人はと言えば、死んだときの衝撃で生前の名前を忘れており、それなら僕が名前をつけてあげる、と張り切って漢字辞典を開いたのだ。
「紫鶴から『紫』の字を貰って『ユカリ』。わたしの瞳の色が紫がかっているから『ユカリ』」
愛おしそうに、ユカリは言う。
「ありがとう、紫鶴。わたしにとってこの十五年間は、本当に夢のような時間だった」
それからどちらともなく、ぽつぽつと十五年間の思い出を語り合った。
たくさんの思い出が詰まった十五年間。
これらを共有する相手がもうすぐいなくなってしまうなんて。
信じられない。
信じたくない。
ああくそ、と内心毒づく。
絶対に泣かないと決めていたのに。眼球の奥がじんと熱くなって、熱が溢れてしまいそうだ。
「――紫鶴。二十歳の誕生日、おめでとう」
ユカリに温かい声でそう言われ、時計を確認する。
もう日付が変わってしまった。
「ねえ紫鶴」
「なに?」
「ぎゅって、ハグしても良いかな」
「もちろん」
即答し、僕はユカリに向かって腕を広げた。
「えへへ」
照れ笑いしながらも、ユカリは優しく僕を抱き締めた。
相変わらずひんやりとしていて、鼓動も感じられない。けれど、この唯一無二の感触を持つ彼女が、十五年間、僕を護ってきてくれたのだ。安心しないわけがない。
「今まで本当にありがとう、ユカリ」
改めて感謝の言葉を口にして、僕もユカリの背に手を回した。
僕の目にはこんなにはっきりと視えているのに、触れている感覚はほとんど無い。
それでも僕は、大切にユカリを抱き寄せる。
「朝は一人でも、きちんと起きるんだよ」
「うん」
「栄養バランスを考えて、ご飯を食べるんだよ」
「うん」
「夜ふかしし過ぎたら、駄目だからね」
「うん」
「わたしが居なくなっても、元気に生きてね」
「……うん」
最後まで、ユカリは僕の心を見透かしたようなことを言う。
こんなことを言われたら、元気な爺さんを目指すしかないじゃないか。
「紫鶴」
ユカリは小さく息を飲んでから、僕の名前を呼んだ。
そうして、まるで寝かしつけるかのように、優しく僕の背を叩く。
「ばいばい」
それはユカリと過ごしてきた時間で、初めて交わす言葉だった。
またね、と返せないことが、心臓を握り潰されるように、痛くて苦しい。
「ばいばい」
だから僕も、同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。
そして。
この会話を合図にしたかのように、ユカリは僕の腕の中から消えていった。
辛うじて掴んでいたユカリの感触がなくなり。
僕の腕は虚空を抱いたあと、重力に従い、力なく落ちた。
(6)――「誕生日おめでとう、紫鶴」
ユカリが消えてから間もなくして、スマホが立て続けに通知音を鳴らし始めた。約一週間分のメールやメッセージを、一気に受信し始めたらしい。
このまま眠る気にはなれなくて、僕は床に寝転がり、だらだらとそれを眺めることにした。大半はクーポンのメールや、グループ内でのメッセージのやり取りだ。僕の反応がないことを心配する友達も居たが、夏休みだし実家に帰っているんだろうと、その心配もすぐに流されている。
全ての通知に目を通し、緊急の用事は一切なかったことに安堵していると、新規メッセージの通知がきた。メッセージに既読がついたことで、各方面から安心したことと誕生日を祝う文面が、次々に送られてくる。
つい先週まで、二十歳の誕生日が待ち遠しかったのに。
今は、大切な友達が居なくなる期限となってしまったこの日を、忌々しく思う。
「……いや、それはユカリに悪いよなあ」
独りごちて、僕はそれぞれのメッセージにお礼を返していくことにした。
僕が今日まで大きな怪我もなく生きてこられたのは、ユカリが傍に居てくれたおかげなのだ。僕が自分の誕生日を否定したら、それらも全て否定することになってしまう。
お礼のメッセージを送り、そこから少し雑談のやり取りをしているうち、開けっ放しにしていた窓の外から鳥のさえずりが聞こえ始めていた。もうすぐ夜明けだ。
スマホを部屋に置き、僕はベランダに出た。
街はまだ寝静まっていて、明かりの点いているところもほとんどない。空が白んできているが、太陽はまだ顔を出しておらず、深夜と早朝の気配が入り混じっている。
ベランダの手すりを握り、真下に広がる道路を見下ろす。この高さからなら確実に死ねるだろう、なんて魔が差したことを考え、慌てて首を横に振り、紫色の空を見上げた――そのとき。
「こらーーーー!!」
と。
聞き覚えのある声が怒号を飛ばしてきたと思ったのも、束の間。
目にも留まらぬ速さで、それはこちらに接近してきた。なんだあれ、と思う暇さえなく、防御態勢を取ることもできないまま、僕は謎の知的生命体の体当たりを受けてしまった。
「いってぇ……!」
床に思い切り頭と背中を打ちつけた。部屋に押し戻す勢いで体当たりされたのでは、その痛みも尋常ではない。
「――死のうとなんてしちゃ駄目でしょ、紫鶴!!」
叫ぶようにそう言って僕の上に覆いかぶさる、謎の知的生命体。
聞き慣れた声帯で僕の名前を呼んだ、それは。
「ゆ、ユカリ……?」
僕は思わず、目を白黒させた。
消えたんじゃなかったのか、という疑問がひとつ。
そしてなにより、彼女の身体に大きな変化があったことが大きい。
「馬鹿! 馬鹿紫鶴っ! 馬鹿鶴!」
僕の肩をがっしりと掴み、がくがくと揺らすユカリ。
まずはこの誤解を解かなければ、話が先に進まない。
「ま、待って、僕、死のうとなんて、してない……!」
「紫鶴が死んじゃったら、わたし――って、え? 自殺しようとしてたんじゃないの?」
半ばパニック状態であったユカリは、僕の言葉でようやく我に返り、僕を揺さぶる手を止めてくれた。
「違うちがう、久しぶりに早朝の空気を堪能してただけ」
「な、なんだ、そうだったんだ……」
安心しきったのか、ユカリはへなへなと脱力した。
「さっき約束したばっかりだろ。元気に生きろって」
「そうだけどぉ……」
僕は、それよりも、と言いながら、ユカリの下から這い出して床に座り、ユカリの背後を指差す。
「なんだよ、その背中にあるでっかい翼は」
ユカリの背には、真っ白で大きな翼が生えていたのである。
さっきまで、そんなものはなかったはずだ。
「ああ、これ?」
ユカリがはにかむように翼を見遣ると、それは嬉しそうに震えた。
「なんとこの度、わたくしユカリは、守護霊から守護天使に昇格致しました!」
「天使……? 昇格……?」
簡潔に説明されているはずなのに、全く話についていけず、僕は耳に入った単語を復唱することしかできなかった。
そんな僕の反応を見て、ユカリは居住まいを正してから、あのね、と説明を加えることにしたようだ。
「どうやら、わたしが紫鶴の隣にいた十五年間、ずっと全日本守護霊・守護天使協会ってところで監視されてたっぽいんだよね。それも、一回でも紫鶴に危害を及ぼすようなことがあれば、即座に地獄に落とすくらいの気迫で」
「だけどユカリは、一度もそんなことはしなかった。だから昇格ってことか?」
「そういうこと。この前来たカミサマみたいな人は協会の会員で、どうやらその辺りも話してくれてたみたいなんだけど……」
「説明、ちゃんと聞いてなかったんだな」
「仰るとおりです……。守護霊として在れるのは紫鶴の誕生日までって言葉のインパクトが強過ぎて、ほとんどの説明がすり抜けてました……」
お恥ずかしい限りです、なんて言って、照れ笑いをするユカリ。
「じゃあ、一回僕の前から消えた理由は?」
「あー、あれはね、守護天使になるにあたり、件の協会で研修を受けに行かされてたの」
「研修?」
「ほら、わたしって元々、野良幽霊だったところから自主的に紫鶴に憑いていって、紫鶴のことを護ってたわけでしょ? だから一度、きちんと研修を受ける必要があったみたいで。強制的に向こうに召喚されてました」
「……へえ」
つまり今回の件は、おおよそユカリの確認不足によって引き起こされたというわけだ。
人騒がせも良いところだが、こうして僕の目の前でにこにこと微笑むユカリの姿を見ていると、この程度のこと、どうでもよくなってしまう。
「あ、それとね。守護天使は、対象が死ぬまでずっと一緒に居られるんだって!」
「もう研修とやらはないのか?」
「それは、もしかしたら今後も定期的にあるかもしれないけど。これからはちゃんと、事前にしっかり日程を聞いておきマス」
「マジで、それは頼む。急に目の前から消えるとか、心臓に悪いから」
「ごめんってば」
手を合わせて謝るユカリに、僕は、良いよ、と言う。
「これからはずっと一緒に居られるんだろ? それなら、もう良いよ」
そう言ってユカリに笑いかけると、彼女はより一層眩しい笑顔を見せた。
「改めて、誕生日おめでとう、紫鶴。そして、これからもよろしくね」
「うん。頼りにしてるよ、ユカリ」
そうして僕らは、どちらともなく抱擁した。
ひんやりとしていて、鼓動もないユカリの身体。
けれど今は、腕の中に居る感触がある。
生きている人間と変わらない感触が在ったのだ。
「ゆ、ユカリ、どうして」
一度離れて、このことを尋ねようとする。
混乱して言葉が出てこない僕を見て、ユカリは全てを理解したように、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
「実はわたし、パワーアップもしたみたい。前よりもしっかり紫鶴に触れることができるし、一時的になら実体化して、他の人間にも視認できるようになるみたいだよ」
「なんだそれ、すごいな」
「必要とあらば、ユカリちゃん百号まで出せる気がする」
「それはやめて」
夜が明け、太陽がゆっくりと昇ってくる。
夏の眩い日差しは、部屋に二人分の影を伸ばした。
終
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