
イテレーションの3つの意義 (「進捗」「改善」「学習」)
アジャイルのイテレーティブな活動は何を意味しているのか、ということを改めて考えていた。アジャイルな動きの意味するところは大きくプロダクトとチームの2つの観点から捉えることができる。ここでは、プロダクトの視点で整理してみる。
結論から言うと、進捗と、改善と、学習、それぞれを認識するところにある。一つずついこう。
まずもって、プロダクトが生み出されること、生み出されていく過程を互いに把握し、現状の理解をあわせること、このタイミングの同期として「進捗」の観点を挙げる。個別の取り組みに関する進み具合自体は、いつでも互いに把握することができる。イテレーションの終わりを待つ必要はない。一方で、チーム及び関係者としてプロダクトの状態に関する共通認識を取るためのタイミングとして、イテレーションは一つの区切りになる。
次に「改善」。単に進捗をあわせるためにイテレーションを営むのではなく、同期された状態をもとに何を変えるとより良くなるのかを考え出すサイクルとしてイテレーションを用いる。この時、改善の観点を充実させるべく、作り手だけではなくプロダクト領域に関係する人々も寄せて、多様な視点を用意する。
最後に「学習」をあげる。プロダクトとしてどうあると良いか分からないから試してみる、作ってみる。そして、作ってみて判断する。これは明らかに単純な「進捗」が目的ではなく、また「改善」という段階ではなく、新たな知識を獲得しようとする「学習」である。学習には何等かの意図が伴う。何を学びたいか、という意図があり、イテレーションはその学びのための環境を作るという主旨になる。
いずれも単独のものではなく、アジャイルな動きを取る中で重なりがある。進捗も改善も学習も同時に起こりえるし、改善や学習を意識せず、進捗を追い回すだけのアジャイルになっている場合もありえる。何のために、イテレーティブにするのか、という問いに真面目に向き合うと、意外と人によって返ってくる答えが異なってくるはずだ。
「はやくモノがみたいから」は、「進捗」なのか、「改善」なのか、「学習」なのか? 作り手は「学習」と思っていても、プロダクトオーナーは「進捗」なのかもしれない。そうした期待のすれ違いはごく基本的なところで起こり得る。基本的なところだからこそ、起きると影響が大きい。
なお、この「進捗」「改善」「学習」の3つの観点は一人でも得ることができるし、イテレーションである必要もない。日々の営みの中で、自分の手元の中で起こせることだ。しかし、一人では生み出せないところがある。それは「創発」である。アジャイルがチームでの営みを前提とするのは、他者との交わりによってこそ生み出されるものがある、という「創発」を期待するからだと私は考えている。3つの観点と「創発」をかけあわせることにイテレーションの価値がある。
…というのが昨年までの感覚だが、今は状況が変わっている。AIによるモノづくりの進展には隔世の感がある(それが毎日起きている感覚だ)。「進捗」を生み出す、「改善」を行う、といったことがAIに肩代わりされる時代を迎えていこうとしている。いわんや「学習」はAIの前提ですらある、とすると、人がイテレーションを営む意義はどこに残っていくのか。
「創発」だろうか? 大規模学習による推論の強化と人間の「創発」のどちらに価値があるか、という勝負がどこに帰結するかは分からないが、そう難しく考える前に、人の側の選択や判断のための「学習」として、イテレーションは残るのだろう。そこに意義が見出される限り。