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組織を芯からアジャイルにする

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「組織を芯からアジャイルにする」ために。あなたの居る場所から「回転」を始めよう。
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#アジャイル

アジャイルの「反復」 と「再帰」で何を問うか

 「スクラムを回す」という言葉がある。上手いこと回して、アウトプットを得ていこう、という意図を込めて使われる。この「回転」のイメージは次のようになる。  特に違和感は無いだろうか。時系列的に左から右に流れているイメージだ。この回転の連鎖によって、価値や意味ある何かを得ようという営みになる。ところが、このイメージがミスリードを生むところがある。上図の通り、インプットとアウトプットは分割されて、別のモノとして捉えられる。このイメージは「順次、各回転毎に期待するアウトプットを五月

「ゆらぎ」の中を自分で泳ぐつもりがあるか

 ソフトウェア開発とはモノとヒトとの間で揺れる営みだったのだと思う。 モノ中心の世界 モノづくりとは、当然ながらモノを手に入れ使えるようにすることが目的であり、そのモノをいかにして生み出すかに私達は多大な時間とその分だけの苦労をしてきた。あきらかに中心はモノにあり、その他のことはモノに付き従う様相と言えた。  モノが生み出せるように、ヒトが動く。ヒトの動きが不用意にブレないよう、プロセスを決めてその遵守を徹底する。ゲートを設けて、期待されるモノづくりになっているかを検査す

自転車を乗るようにアジャイルで走る

 そんなに遠い昔の話ではないと思うが、誰かにアジャイルを教わると言えば、「現状がいかにアジャイルではないか」の説教か、「正しいアジャイル」の講釈が先立つことが多かったのではないか。  20年もアジャイルに関与していると、様々な変遷があることに気づける。現代において、さすがに頭ごなしに正しいアジャイルの説教や講釈から始まることはないだろう。まだそんなスタートを切っている現場や組織があったら、教わり方を変えたほうが良い。  アジャイルを自転車乗りに例えてみる。日本人の多くが経

「アジャイルは、ミーティングが多くて、時間も長い」という説

 アジャイルに取り組み始めると、必ず出てくる声に「ミーティングが多い、時間が長い」というものがある。プロダクトづくりでも出てくるし、組織アジャイルでもほぼ必ずと言って良いほど出てくる。  こうした声の流れあるいは背景には「ミーティングなんて無駄」という、会議=悪しき存在という考えが存在している。無目的で、無用なミーティングなんて、私も撲滅されれば良いのに、という立場を取るが、このことと、先述の状況は非なるものである。  ほとんどの場合、ミーティングの回数が多くなるのも、時

スクラムマスターやプロダクトオーナーがいなくて、アジャイルができるのか?

 関与する組織によっては、スクラムマスターがいない、プロダクトオーナーがいない、ということがありえる。  経験的にいないにも等しい、兼務でほぼいない、物理的に本当にいない、いずれの「いない」がある。まともに考えればスクラムに取り組む状況にはない。というときに、支援者としてどういうスタンスを取るか、は2つに分かれるだろう。  「いない」では話にならん。経験がゼロならまずスクラムガイドを読むところからはじめよ。しかる後に、自分たちにどのような支援が必要になりそうか、自分たち自

「どうありたいか」と「どうするべきか」と「どうしたいか」の間にある三つどもえ

 「それは、アジャイルではない」「アジャイルがやりたいわけではない」このあたりの問答は時折あるだろう。こうした問答に突きあたったとき、たいていの場合、ムードはぐんにゃりとしていく。対話するどちからがやりこめられる、またはやりこめられないように抵抗しはじめる。心中には波風が立ち、気もそぞろになっていく。  何が起きているのだろうか?  「どうありたいか(目的)」と、「どうするべきか(方法)」と、「どうしたいか(意志)」は三つどもえになりやすい。この3者で陣取り合戦を行ってい

「小さく始める」の罠

 「小さく始めよう」という誘い文句が以前に比べると、ごく当たり前のように使われるようになってきた感がある。「小さく始める」はようやく市民権を得られるに至った。世代交代が進んでいるからだろうと思う。  ところで、小さく始めるのは何のため?  文脈によってその意図は異なるだろう。いくつかあげてみよう。 ・はやく学ぶ  あらかじめの計画づくりをいくら精緻にしようとしたところで、その効果が期待できない。複雑な問題や状況のため分かっていない、知らないことが多い。そのような場合には

週に1回ミーティングを開いたらアジャイルなのか?

 気づけばすっかり隔世の感だが、アジャイルが当たり前になってきている。と書くと、言い過ぎでは?と思われるかもしれないが、出発地点に居た者としては真面目にそう感じている。当時の時間をともにした同朋ならば、きっと同意してくれるだろう。かつてから比べれば、アジャイルは遠くにまやってきた。  そして、仕事柄も踏まえて「アジャイルに取り組んでいるんですが」という枕詞も毎日、いや毎時間のように聞いている。アジャイルに取り組んでいるが上手くいっていない、そもそも上手くいっているかどうかわ

スクラムマスターは「学び上手」を目指そう

 アジャイルとは学習活動のことだ、とするならば、スクラムマスターやアジャイルコーチは学びのための先導役ということになる。チームがより良く学んでいるか、学ぶための状況づくりができているか、に着目する「学習の番人」にあたる。  とすると、学びのためのアクティビティ、プラクティスに関する引き出しを持っておく必要がある。いかにしてチームの学びを促すか、道具を揃えておくことだ。もちろん、それはただ「知っている」という状態のことではない。知っていて、使い方を分かっていて、すぐに道具を取

「アジャイル」の何が難しいのか?

 「アジャイルをやろうとすると、組織のこれまでの規則や考え方と合わないところが出てくる。だから、アジャイルを取り入れるのは難しい」  という反応を得ることは少なくない。もう10年も20年も前からこの声はある。それでいて、なお、いまだにある。そう考えると余程のことであると思えてくる。アジャイルが革新的すぎるのか、それとも組織が病的なほど固まりすぎているのか。  アジャイルという営み自体がこれまでのあり方とはあまりにもかけ離れている、というのは確かにそうだ。例えば、「職能横断

「アジャイルなプロダクトづくり」 を現場、組織に。

 9月4日に「アジャイルなプロダクトづくり」を上梓した。この本を作るにあたってのインセプションデッキがこちら。どのような本をおおよそどう作ったかを書き著してみた。  さっそく、ご感想もいただき、大変感謝の限りです。  皆様、ありがとうございます。  デッキにも書いている通り、この本には「ストーリー」がある。まとまったストーリーを書くのは2020年の「チーム・ジャーニー」以来で、気がつけば4年ぶりであった。  「正しいものを正しくつくる」を「カイゼン・ジャーニー」のよう

アジャイルのつもりでいてアジャイルでない、「つもりアジャイル」

 なんか違うアジャイルチームのイメージを4つほどあげてみる。 アジャイルの手順化 2週間に2時間だけのチーム バックログ空焚き問題 アジャイル風味のWF  アジャイルのつもりでいて、アジャイルでない。つもりアジャイル。  「アジャイルの手順」とは、プロセスやプラクティスの「定義」に固執し、結果的に「手順」として見てしまっている。その結果、手順としてあっているかどうかの評価が優先的になる。この流れから、アジャイルをプロセスとして厳密に定義しようとしてしまう(アジャイ

「ウェルビーイング」と「アジャイル」

 先日、渡邊淳司さんと「ウェルビーイング☓アジャイル」というテーマで対談を行った。とても示唆があり、充実の2時間を過ごすことができた。この模様は渡邊さんが手掛ける冊子にまとめられる予定になっている。同時に、私も気付かされるところを言語化していきたいと思う。  渡邊さんの「ウェルビーイングのつくりかた」を読んでいると、だれのウェルビーイングなのか?という問いをもとに、わたし、ひとびと(三人称)、わたしたちという分けが提示される。このわたし、わたしたちをどう捉えるかがウェルビー

「アジャイルなプロダクトづくり」

 プロダクトづくりには2つの状況がある。何もない、ゼロから臨む場合と、すでにあるプロダクトをより良くしようとする場合とで。いずれの場合にも、「何が正しいのか?」に答えるための仮説検証と、作りながら確かめていくアジャイルの二刀流で臨む必要がある。  ただ、指す言葉は同じでも、「ゼロから」と「すでに」で適用する方法は変わる。置くべき焦点が異なる。そうした文脈の違いを捉えながら、どのようにしてアジャイルにプロダクトをつくるのか。ここを語るための本を書いた。文字通り「アジャイルなプ