「天体観測」には仏教のすべてがあった、へのアンサーnote

「BUMP OF CHICKENは「野生のブッダ」? 『天体観測』には仏教のすべてがあった  - この名曲は「悟りを目指す物語」なのではないか - 」なる評論を読んで、愕然とした。

「天体観測」という曲は、発表当時から好きで、よくカラオケで歌っていたものの、BUMP OF CHICKENというバンドそのものはどうもうまくなじめなくて、縁遠い感じがあった。それでも、会社の同僚や取引先の人とかと飲み会があって、二次会があったりなんかしたときにはちょうど良い歌なので、折に触れて歌っていた。
それが、色々と調子を崩していた去年の秋のこと、自分にとってのこの曲に大きな変容があった。家族の厄落としと称して訪ねていった北軽井沢スウィートグラスに、おもちゃの天体望遠鏡をもって星を見に行ったのだ。
あいにく雲に邪魔されたから、星どころでなくて、気分だけ味わうしかなかったのだけれど。薪ストーブに火をつけて、おもちゃの望遠鏡を組み立てていたら、心のどこかであの曲が流れてきて、それ以来、どうもなにやら、気になっていたのだった。

作曲活動のヒントを得ようと、歌本を紐解いてコードを奏でてみたらその工夫に驚き、ひさとしメンバーに熱く語ったのも記憶に新しい。しかし、その「気になっていた理由」の秘密が歌詞にも隠されていたとは、気づかなかった。

それが何かと言えば、調子を崩して絶不調期をどうにか生きていた頃、仏教哲学が救いの灯火のようにあったのだった。自分のなかで大きな存在になっていった「天体観測」と「仏教哲学」。ある日突然、僧侶がこの2つを結ぶ評論を書くなんて、因縁浅からぬものを感じたのである。

一点だけ、不満があるとすれば、文章力をパッションが追い越している感じがあって、もっと的確な言語化のありようが、ある気がしたのだった。

天体観測=禅という見立ては、おそらく正しい。どう考えても、ものすごく正しい。や、もちろん仏教哲学の用語でアナロジーするだけが答えじゃなくて、老子でも、キリスト教でも、もしかしたらニーチェでもいいのかもしれないけれど。まぁ、自分にとっては仏教哲学がしっくりきたわけです。

 望遠鏡=座禅
 予報外れの雨=思い通りにならない苦しみ
 深い闇=本来実体のないところに立ち上がる煩悩、無明

という見立てをすれば、すっきりと意味が通る。

ちょっと大胆な読解をしにいくと、
 午前二時=丑三つ時
 フミキリ=生死の境
とか考えちゃうと、結構怖い話になる。

でも明らかにこれは「死」に向かっているわけではなくて、「悟り」や「解脱」を目指している。だからこそ、曲全体に前向きさやエネルギーがあふれている。

ポイントは4回あるサビで、ここで表現される
 「イマ」というほうき星 君と二人追いかけてた
 「イマ」というほうき星 今も一人追いかけてる
 「イマ」というほうき星 今も一人追いかけてる
 「イマ」というほうき星 今も二人追いかけてる
の変容をどうとらえるか、だ。

一番は「初めて悟りに触れた」
二番は「再び触れようとして、叶わなかった」
三番は「失意のうちに日常に復帰した」
四番は「悟りへの執著を捨てることで、再び悟りに至る可能性に触れた」

と、こんなふうに読めるような気がする。

「静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ」という言葉には「隻手音声」の禅語が連想される。

この作品における最大の謎は、「君」とは一体だれなのか、ということだ。具体的な人物を指しているようでもあり、思い通りにならない苦しみを客体視することで浮かびあがるオルターエゴ、という感じもなくはない。
禅の世界に入門するとき、人は「大袈裟な荷物をしょってきちゃう」ものだから。

「明日が僕らを呼んだって、返事もろくにしな」いというのも、初めて聞いたときから不思議な歌詞だなと思っていたが、禅の境地とは確かに「いまここ」への集中、充実であって、未来や過去というものは意識の彼方にあるべきものなのかもしれない。
初めて得た悟りの境地は、それを再び求めようとする煩悩によって遠のく、というあたりは、「食べて、祈って、恋をして」なる本を読むと感覚がわかるかもしれない。や、この本はこの本で、俗っぽい本と侮ってはならない。
まあそれはいいとして。二回目と三回目のサビに「痛み」が生じているのは、そのような意識の変容によるものなのではないか。

一回悟りの境地に至ったからといって、「涅槃寂静」が即、手に入るわけでもない。修行の道は厳しい。
四回目のサビが「二分後に君がこなくても」「君と二人追いかけてる」というなんとも不思議な言葉の組み合わせになっているのは、真の悟りへの可能性を示唆しているように思えてならない。

と、ここまで書いてきて、うーん、どうだろう。この文章もまた、「文章力をパッションが追い越している」に陥っているような感じはする。もう少し明快に、一歩ずつ、論理を組み合わせてきちっと批評を組み立てることはできると思う。いろんな場所で説明を端折っていて、他の人が読んでもちょっと理解しがたいと感じるような気がする。

まぁでも、パッションに導かれた文章を呼んで、パッションに満ちたアンサーを述べるというのもまぁ、悪くないんじゃないかな、と、言い訳して、PCを閉じ、ランチにでも出かけるとしようか。そうしよう。

(ようへい)



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