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リスキリング

49歳のとき、脳出血に倒れた。仕事をセーヴして時間ができた。仕事上の「問題」が解けなくなってきていたという自覚もあった。で。50歳を過ぎて大学院に進学した。

さまざまにアハ体験となる知識を授けてもらった。仕事の質が劇的に変わったと思う。

その一方で愕然とすることもあった。50歳になるまで本の読み方がまるでわかっていなかったということに気付かされたことだ。
それまでの僕は「本」に書いてある情報にニュートラルに接するのではなく、我田引水に解釈してしまっていた。著者がいう「美しい」を読むのではなく、作者の書いた文章に、自分が思い込んでいる「美しい」のイメージを当てはめて読んでしまう。道具の名称など解釈の余地があまりな単語ならまだいいのだが、「美しい」のように解釈の余地ありありな単語になると、せっかく本を読んでいるのに、著者の言わんとしているところがわからず、しかも、自分としては、わかったつもりでいる。

これはよくない。よくない状況をずいぶん続けてきてしまっていた。
さきほども書いたように愕然とした。

(これもアハ体験といえばアハ体験かもしれないが)

しかも、こうしたことに気づいた(考え方がまとまった)のは、大学院を修了して、しばらく経ってからのことだ。ぢっと手を見た。

でもだからこそ進学は大正解だった。一人働きの僕に先達が与えられたことだったし、自分を見つめ直す鏡をもらった得難い機会だった。
30年前の「大学(学部)」で教えてもらったことの「値打ち」も再認識した。教授陣に恵まれていたことも。

僕にとって大学院体験は生々しいものだった。期せずして進学直後から市役所との闘いが本格化し、かなり苦境に立ってしまったことから、「リスキング」なんていわれると、そんなカジュアルなものなんかじゃなくて…と思ってしまうが、これとて「リスキリング」の語釈を我田に寄せてしまっているからだろう。

僕らの世代は問題が解けなくなったら、それを放置しないことなんだろう。なにしろ、生まれた頃は黒電話で、スマホが発売されたのは不惑(40歳)をとうに過ぎてからだ。

「今」という時代を無自覚のうちに20〜30代の常識で量らないように。
命とりになりかねない。