「右脳的」も大事
スージー鈴木さんの著作「1984年の歌謡曲」(イースト新書/2017年)に、作詞家の康珍化さんをアナライズして以下のような一節がある。
この人、比較的芸風が広い人だとは思うが、ここで注目したいのは、当時のいくつかの作品タイトルに表れた、独特のセンスである。『悲しみがとまらない』(杏里)、『まっ赤な女の子』『艶姿ナミダ娘』『渚のはいから人魚』『ヤマトナデシコ七変化』(以上、小泉今日子)、そして、杉山清貴&オメガトライブの『君のハートはマリンブルー』、『サイレンスがいっぱい』『ガラスのPALM TREE』。
この独特な言語感覚を説明するのは難しいが、あえて言えば「コピーライター的言語感覚」とでもいうべきか。例えば「悲しみ」という抽象名詞に「とまらない」を付けるなど、文字面に積極的な意味は無いが、でも何となくイメージがふわっと湧き立つ感じのタイトル。この感覚は、「不思議、大好き。」「おいしい生活。」など、当時全盛を極めていた糸井重里のコピーと共通するものである。『君のハートはマリンブルー』も、イメージは分かるけれど、よく考えると、意味はつかみきれない。
引用部分の最後の「イメージは分かるけれど、よく考えると、意味はつかみきれない。」は、つまり「右脳にはビンビン伝わってくるが、左脳的な理論としては説明がついていない」ということなんだと。
…左脳的に説明のつくことが全てではない。そして「右脳」にこそ響くメッセージは実在する。
僕は、このことを無視して、左脳的な理論だけで造ってしまったのが、あの、どこかに寂しさで冷たいままの「再開発の街」なのではないかと思っている。
あたたかみは右脳側で感じるんだろう。でも、つい最近まで(いや、今も)左脳的な理論で説明がつけば、それが全てだと思っていた(今も、か)。
「まちづくり」といえば「建築」という理系の仕事という考え方も、そういったことから派生したものでしょう。
ただ、そういう時代も、もうそろそろ終わりかな。「左脳だけが全てじゃない」って認識も、一般的になりつつあるわけだから。