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この世の終わり

もう、阪神・淡路大震災以降も30年も前のことにならんとしている。
でも、根本から折れたビル、高速道路の橋脚の映像は今も脳裏に焼き付いて離れない。

でも、それで終わりにならなかった。

東日本大震災では、あの津波。原発の爆発…
熊本城は崩れた。

能登の惨状。

僕らの「日常」は、明らかに「薄氷」の上に乗っていた。
この30年ほど、不動のものにも思える僕らの「日常」が、この上もなく脆いものであることを「同時代の体験」として思い知らされててきた。

この30年、国は弱り続け、

能登については、一年たっても「被災直後」の状況を抜け出せずにいる。

民間に自律的な支援の萌芽もある…それなのに被災者の生活は日常を取り戻すには遠く、東日本大震災だけでなく、阪神・淡路大震災の復興もインフラや建物の復興に留まり、地場産業や地域コミュニティの「健常」を取り戻すには至っていない。やむを得ず「故郷を離れる」人々もいて、復興する前に故郷に「新しい物語」が始まってしまうという例もある。

未来はいつも想定外だ。                       そして、僕らは「今」について、存外、無知だ。

昭和19(1944)年の終わり。「日本が負ける」を想定できていた当時の日本人はどれだけいるか。案外、東京を諦めていた人は多く、いっとき730万人いた東京の人口は敗戦の年までに380万人に減っているが、これには空襲などの犠牲者ばかりでなく、地方に疎開した人が多く含まれれる。

でも、この国が「負ける」とは思ってはいなかった。

すでに前年昭和18年の3月にはガダルカナル島の玉砕戦はあり、4月には山本五十六大将が戦死し、6月には日比谷公園でハデな国葬が執り行われている。政府組織や大企業の統合も目まぐるしく、マスコミは統制されていたとしても、追い込まれていたのはなんとなくわかっていたはずだ。
昭和19年の1月には東京や名古屋で建物疎開(空襲被害軽減のために、民間の建物をあらかじめ破壊しておくこと)も始まる。3月には宝塚歌劇団が休演。SKD(松竹歌劇団)は解散している。

昭和7(1937)年の上海事変(第一次)の頃には、大陸での勝ち戦が明らかに好況をもたらしていたから、市井にいても、返って戦況が思わしくないことは実感できていたと思う。

(だから、縁故で疎開できる人たちは、一斉に大都会を離れ始めたんだろう)

でも、「負ける」と思っていた人がどれくらいいたのか…

今、街じゅうに珍しくなくなったコイン駐車場は、80年代末のバブル経済、リーマンショックの痛手が、今も取り戻せていない証拠だ。でも、さらにショッピング・モールや高層のビジネス・ビルを建築し、東京都心でも4軒に1軒が空き家なのに、高層マンションを建設する…少子高齢化の時代に、こうした政策を打ち出していることで、この国の都市は、あの頃、空襲に見舞われたように瓦礫と空き地になるんだとは思わないか。

前の戦争では300万人の国民が亡くなった。敗戦後も戦災孤児や、一般の人も、昭和20年から数年、決して少なくない人々が亡くなった。

わが家も大変だったようだ。空襲被害はほとんどなかったが、父方は長男(叔父貴)を戦場で失って、主なクライアントは「海軍」だったら、絶望的な「戦後」を迎えていた。

母方のひいばあちゃんは、とにかく「死ぬかと思ったのは戦後になってからだ」と、しばしばあの頃を振り返っていた。

また、同じことを繰り返すのか。

政府や自治体こそが危なくなるわけだから、彼らがなんらかの処方箋を示し、ノウハウを提供してくれるとは思わない方がいい。

ただただセルフ・サービスの手探りだ。

文字どおり「備えあれば憂いなし」「地震は忘れた頃にやってくる」だ。

少なくとも、高度成長期以降、安定的に来た、この国の社会システムが永遠のものだとは思わないこと、ちゃんと「終わる」を意識して準備することだ。

あした、この世の終わりが来ると思って準備すべきなんだ。