文化を徹底してカラダで身につけること
文化を徹底してカラダで身につけること。それが逃げるひとつの道である。
これは、堀井憲一郎さんの著作「若者殺しの時代」(講談社現代新書/2006年)、その結びに近いところにある言葉。
僕はストレートにものを言いう。だから、やりにくいな、空気読めよ、と思っていらっしゃる方も、きっと、たくさん、いるのだと思う。でも、それでも何とか仕事をいただいていけて食べていけるのは、何らか、僕に「芸」があるからなんだと思っている。
(「芸」っていうのは堀井さん曰くの「徹底してカラダで身につける」「文化」ってやつ)
逆に言えば、その「何らかの芸」が「いらない」と言われるようになれば、僕は、あっさりと世の中からスポイルされてしまうのだろうと、いつも、そう思って生きている。
…確か、志ん生師匠が、かの初代林家三平師匠の真打ち披露の口上の中で「芸人は籠の鳥といっしょ。お客様に餌を貰って生きている。高座に上がっているときは、なんだか一段高いところに偉そうにしているけれど、つまらないから、もうお前はいらないといわれれば、それまでのもの」と、そんなことをおっしゃっていましたが、僕も、自分を顧みて、つくづく、ああ、そんなかんな感じだなと。
ただ、その危うさと引き換えに、恐らくは、この世の中で、最も気楽で自由に生きていられるのだとも思っている。幸いなことに奥さんもつきあって、芸人の女房をやってくれているから、これは、本当に幸せなことだ。
堀井さんは「外へ逃げると捕まるなら、だったら思い切って逆に逃げるのってのはどうだろう。内側に逃げるのだ」と言い、その「内側に逃げる」を「日本古来の文化を身につける、ということなんだけど」といい、都々逸、古武道、落語、刀鍛冶、酒杜氏、左官…美容師やラーメン職人なんかでもいいし、探せばもっとあるだろうとおっしゃっている。
ようは、今の流行を追ったようなものより自分のDNAに染み込んだやつを磨いた方がものになる確率が高いだろと。
僕もまったく同感だ。
学校教育の呪いから、たいていの人は「本」を読み始めてしまう。教室・講座に通い始めてしまう。でも、そうではなくて、わけわかんなくてもいいから、自分の衝動に任せて、片っ端からお寺をめぐるとか、かき氷を、おはぎをたべあるしてしまうとか、そういう方向から始めた方がよいと。
(そんなところから「芸」が見つかる場合もある)
江戸文化というと、勉強のできる人ほど、年表みたいな本をあたり、260年間の大枠を掴んでから、ディティールへという感じで取り組んでしまうと思うけれど、そんなことより、今、下町へ出かけていって、風鈴の職人さんのところにお邪魔して、悪いけれど、1日観ててもいいかと頼んでみて、座学は、そういうのが一通り終わってからで充分だと思う。
その方が面白がれるし、面白がれるようなものでないと、芸は身につかないから。
何をしなくとも、今は生きてるだけでリスク。どうか逡巡せずに。