「さがす」(2022/1/22鑑賞)

 家の外に出たとき、父はどんな顔をしているのだろうか。「父」や「母」や「学校の先生」。肩書きが名前になる人たちの、本当の名前のことを思った。父が飲み会で酔っ払っているとき、どんな話し方をするのか知らない。学校の先生が休日に、恋人とどんなデートをするのか知らない。それを想像したときの、生々しく、目を背けたくなるような感覚が襲った。
 
 娘から見た「父」はずっと、頼りなくて、情けなくて、だけど憎めない人だった。娘のもとから離れた父の顔を、観客として見てしまったことへの罪悪感とそれから絶望。「父」は何も嘘を吐くことなく、「父」のまま、人を殺していた。作中、どこで娘がそれに気づいたのかは描かれていなかったが、その場面があったら私は本当に立ち直れなかっただろう。

 血のつながりは時に呪いになる。それでも私たちは肩書きとは違う場所で、自由に生きる権利を持っているはずなのだ。作中では描かれなかった、娘の未来のことを思う。どうか、自分で死を選ぶことなく、もしくは誰かに死を選ばれることなく、「楓」という名前の人生を生きて欲しい。あなたの未来は明るいと、そう伝えてくれる人がいることを願う。

 ラストシーンは、これから何度も思い出すことになるだろう。たくさんの言葉がなくても伝わるということ。それは必ずしも、希望ではなかった。こんなにも悲しい言葉のラリーがあることを、私は初めて知った。カコーン、カコーン。卓球ボールの音が響く。映画が終わったあとも、しばらくずっと、その音が耳に焼き付いて離れなかった。


#映画感想文 #エッセイ #さがす #片山慎三

 

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