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「全てを置き去りにする男」

ある日のこと。仕事のため自転車で出かけた。最近、車で出かける頻度が激減し、もはやペーパードライバーではないかと思うほどである。

出発時間までの間、必要不可欠の財布、定期入れ、本や仕事用の資料などを愛用のリュックに全て詰め込み、忘れ物対策を完璧仕上げた。身支度についてはそこそこの仕上げにしかならないので、早々に諦めて出発時間まで待機していた。

しかしその日に限って突然不安になり、ドキドキが止まらなくなった。自分でも収拾がつかないほどほど動揺しているのがわかる。

「何故か胸騒ぎがして落ち着かない」
「仕事の段取りや確認作業は万全か」
「上手く出来るんやろうか」

無情にも出発時間は刻々と迫り、押し寄せる不安感の中で自宅を出発した。しかし出発はしたものの頭の中の確認作業とモヤモヤはおさまらず、思考回路は絶え間なく稼働している。僕の頭脳なので稼働率は大したことはないとは思うのだが。

自宅を出発してから約30分が経過。いつもそのタイミングでスマホで時間を確認するのが僕のルーティンである。

すると珍しいことに家内からめちゃくちゃたくさんのLINEが入っているではないか。複数行に渡ってトークが連なり、電話も何度もかかってきていたようだが全く気づかずにいた。時間の確認をした為、たまたま連絡に気付いたのである。

「そんな急用もないのに何やろ」

未読のトークを確認し、一瞬目を疑った。

「今日、カバンはいらんの」
「玄関に置いてるけどいいんか」

家内の言葉の意味が全くをもって理解できない。

「これは何のことや」
「カバンがいらん訳ないやん」

「ん?何でか体が軽い」

僕は気づいてしまったのだ。必要不可欠なものを全てを詰め込んだ愛用のリュックを玄関にすっきり、そしてすっかり置き去りにしてきたのであった。

その日の気温が低くて寒かったので、そこそこ分厚いコートを着ることにした。その重さでリュックを背負っている勘違いしていたのであった。僕はコートにスマホと鍵のみを入れて、自宅を出発していたのである。ほぼ手ぶら状態とも言える。

「ついに始まったんやわ。恐れてたやつが」
「これはもの忘れレベルちゃうやん」
「ものボケとか言うてられへんやつや」
「もう笑われへん。自分でも怖いわ」

先ほどとは異なる不安感が大海原に波紋のように広がっていくような感覚。幻想敵なシーンが目の前をゆらゆら映し出されている感じに身震いした。

正気に戻った僕は慌てて家内に電話を入れた。自宅で取りに帰る時間の余裕はなく、家内に仕事場まで届けてもらうハメになった。申し訳なさと情けない気持ちで家内の到着を待っていた。そして車で到着した家内から愛用のリュックを受け取った。あの日から家内と子供たちの不安で悲しげな表情は僕の胸の中から消え去ることはない。

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