ほっと一息。と、眠りまくり。
「記録更新、おめでとうございます!」
「ありがとうございます。」
「前回に比べ、序盤の潜水で苦しんだように見えましたが。」
「トレーナーの話を聞き過ぎました。良い経験です。」
「今のお気持ち、誰に伝えたいですか?」
「そうですね、やはり、長年支えてくれている妻です。思えば父の借金がきっかけで私が彼女の家に転がり込んで、・・・」
「以上、躁鬱ダイビングⅡ型部門で20年ぶりに個人記録が更新された競技会場からの中継でした。スタジオへお返しします。」
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復職してみる、とお医者さんに申し出たその日から、激しかった動悸が落ち着いて、それから1週間ほど、眠りまくりました。毎日14~20時間。
その後すぐに、心も体も晴れやかになりました。久しぶりに春の風が心地よい。たぶん、もっと早く、そしてもっとしっかり、眠りまくれば良かったんです。
お医者さんからずっと、規則正しい生活を、と言われ続けました。早寝早起き、食事は3回、適度な運動、と。それももっともだから、手始めに、仕事をしていた時のように夜11時に寝て、朝6時に起きると決めました。
朝起きたら妻の出勤を見送って、水を1杯飲んで、植物に水をやる。朝食を無理にでもとる。そして煙草を1、2本吸いながら、「今日は何かできそう?」と自分に聞いてみる。ここまではすぐに定着しました。
問題は、「今日は何かできそう?」でした。ただボーっとしてる、なんてできないから、夜しっかり眠るためには日中何かして過ごさないといけない。でも、これができない。
何度も試したのは、散歩。もともと目的なく歩くという習慣がなかったから、何かしら楽しそうな企画を考えました。近所の河原で楽器を弾こうだとか、電車に乗ってあの店のキムチを買いに行こうだとか。それでいつも、出かける支度まではできます。でも、玄関で靴を履いて立ち上がると、なぜか外に出られない。
煙草を吸って様子を見よう。だめだ。もう1本吸おう。まだだめ。試しにチューハイ飲むか。うーん。もう1本飲んでみよう。
そんなことを続けるうちに、窓から西日が差してきて、あぁ、もうすぐ妻が帰ってくる、今日はあきらめよう、とうなだれる。
他にもいろいろ試しました。でも。
昔から好きなドローイングや版画をしようと道具を机に並べてみると、散歩と同じように何かが邪魔をして、鉛筆や筆の先を紙に置けない。本や漫画を開くと、活字の上を目がツルツル滑るようで内容が頭に入らない。音楽を聴くと、雑音のようで耳が痛くなる。テレビをつけると、CMが殴りかかってきて観ていられない。それならとCMを早送りできるように映画やドラマを録画して観ると、何だかソワソワしてじっとしていられない。
唯一残されたのは、布団に逃げこむことでした。布団に包まれるとちょっとだけ安心できるから。でも、眠りは浅くてすぐに起きてしまう。
寝る。起きる。何かできる? できない。
寝る。起きる。何かできる? できない。
穴を掘っては埋める、を繰り返すどこかの強制労働のようでした。出口の見えない無限ループ。
こんな不毛な1年半が過ぎ、傷病手当がもらえるのもあとわずかになった今年2月ごろから動悸がひどくなって、、、
というところで、眠りまくり、に話が戻ります。
眠りまくりを経て、久しぶりのおだやかな気分を味わうなかで、20年前にも同じようなことがあったと思い出したんです。
当時僕は気持ちの浮き沈みが今以上に激しくて、職を得ても長続きせず、2~3年ほどヒモニート(造語:ヒモ+ニート)の生活が続きました。それに終止符を打ったのが、眠りまくりでした。
実家から彼女(今の妻)の家へ引っ越して、ヒモニートからただのヒモになったとたんに、眠りまくったのです。
それからにわかに気持ちが楽になり、派遣社員で5年。そして今の会社に入って10年。素行不良や遅刻欠勤は続いたものの、僕としては割と安定した15年を過ごしました。
いま思い出すと、20年前も今回も、眠りまくりのきっかけは、「ほっと一息」つけたことでした。20年前は、いびつな親子関係から距離をおけたこと。今回は、傷病手当が切れるという焦りから解放されたことです。
眠りまくりは、この「ほっと一息」が引き金になって、体と心が求めるものに素直に反応した結果だと思うんです。
あの20年前から、自分が気分の沈みを「潜水」とイメージするようになったことも思い出しました。体に重りをつけられて、海底に向かって静かに沈む。光の届かない底の砂に足がつくと、誰かが重りを外してくれて、自然と海面に浮き上がる。だから、沈みはじめたと気づいたら、逆らわずに身をまかせればいいんだ、と。
その、海底まで沈む、というのが、眠りまくることでした。
心療内科に通い始めてから、そのことをすっかり忘れていました。もともと西洋医療を疑っていたけど、こうなったら仕方ない、医者の言うとおりに生活リズムを矯正しようと頑張りました。でもそれは、海底へ沈もうとしてるのに、浮き上がろうともがくようなものだった。
休職してすぐにあのイメージを思い出していれば、休職をバカンスだと考えて、ひとまず「ほっと一息」ついて、ちゃんと眠りまくって海底まで沈んでおけば、もっと早く浮き上がれたかもしれない。そう思えてなりません。
お医者さんは、気象予報士に似てるんじゃないでしょうか。過去の記録から傾向を絞り込んで、最後には第六感まで働かせたりするけど、それでも台風の動きを予想しきれない。スーパーコンピューターで膨大なデータを解析しても、予測からはみ出す台風がやってくる。
お医者さんも気象予報士もその道のプロだけど、世の中の技術が日々進歩しても、まだ患者や台風のことを完全に理解できているわけじゃない。だから僕らは僕らでしてもいいと思うんです。僕らなりの台風の進路予測を。
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「はい、中継ありがとうございました。今日は、日本躁鬱ダイビング協会専務理事でいらっしゃる、仙水勘駄朗さんにお越し頂いています。仙水さん、この選手はトレーナーとの関係に苦労したようですね。」
「多くの選手が通る試練です。しかし最近、躁鬱ダイビング経験のないトレーナーが原因では、とする研究結果が発表されました。」
「ほほう。そこから解決の糸口は見つかりそうですか?」
「さらなる研究が必要ですが、現時点で判ってきたことをフリップにまとめました。」
・トレーナーはあくまで助言者
・これまでのうつ期のリズムや傾向を、自分で探ろう
・逃げるように寝ると、沈み切れず、浮き上がれない
・焦らず、周りを気にせず、「ほっと一息」つこう
・「ほっと一息」できたら、体にまかせて眠りまくろう
「うつ期に入ったら迷わず「ほっと一息」を見つける。すると自然と海底まで沈みきることができます。そのためには周囲の声に耳を貸さず、ひたすら自分に素直になる時間が必要なのです。」
「自分だけで心と体に向き合う時間、ですか。選手たちは、常人では想像できない海を潜っているのですね。仙水さん、どうもありがとうございました。」
「では次の話題です。昨日の質疑で発酵党の班土見氏が、コロナ変異株の急増はパンダがパン・ド・ミを食べないからだとする持論を展開し、国会が紛糾しました・・・・・」
おわり