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卑しい心と尊い心。どちらも誠実で無ければ虚しくなるのです。今日の写真は久しぶりのフルーツケーキです。
卑しいとは、がつがつしている。欲望をあらわにして、さもしい様を言います。それに対して尊いは、価値が高い。大切だ。貴重だと言う意味があります。
人は尊くなるのが良くて、卑しいことはしないのが良いとされているのです。でも、育ちが悪い私は尊くなる術を知りません。食べたい時に食べ、眠りたい時には眠る。欲望があるからそれを満たすために働いてお金を得るのです。
尊いと言われるために卑しいことをせず、食べたいと思っても我慢して、眠たくても、眠らず我慢して勉強し、誰かの為に働いて、尊い人だと言われてもそれは本当の尊い人だと言えるのでしょうか?
誰もが卑しくて尊いのだと思います。欲を満たそうとあさましくなったり、困った人がいれば助けようと思ったり、自分の実力ではできないことに挑んだりしてしまうのです。それよりも誠実で失敗してもそれを素直に受け止めて次に活かせることができれば良いと思うのです。
誠実でない例をいくつか挙げます。
嘘をつく
ごまかす
隠し事をする
裏切る
責任逃れをする
言い訳をする
他人のせいにする
自分の意見を言わない
自分の気持ちを伝えない
自分の弱さを認めない
これらの行為は、すべて誠実ではありません。誠実であるためには、自分の心や考えを偽らず、ありのままに表現することが大切です。
卑しくても誠実であれば心は満たされているのです。
聖人君主で尊い人だと思われていても誠実で無ければ心は虚しくなるのです。
欲望のままに生きても誠実であれば心は満たされているのです。でもそれだけでは社会生活はできないのです。思いやる心がいるのです。
思いやるとは他人を楽しませたり喜ばせたり幸せにすることではありません。幸せを奪わないことです。幸せとは心の中で感じることです。嫌な思いをさせない。迷惑をかけないことでもありません。迷惑か迷惑でないかそれを決めるのは心です。
相手の心はわかりません。そして自分で決めるものでもありません。心の交流ができた時にその一部がわかるだけです。
おもてなしをするのは、誠意を示すためです。下心のあるおもてなしは誠意はありません。ご馳走様を食べてもらうのがおもてなしではないのです。相手のことを知り、心の交流を求めるのがおもてなしです。思いやりのあるおもてなしとは、心配りのできたおもてなしです。
何度も言いますが、相手の心など探ってわかるものでも理解できるものでもないのです。心の交流で気づくものです。感じるものです。
それでは思いやりの例をあげたいと思います。
思いやりの例はたくさんありますが、いくつか挙げてみます。
困っている人を見かけたら、助けてあげる。
誰かがミスをしたときに、責めずに、励ます。
相手の話をよく聞いて、共感する。
相手の気持ちを尊重する。
相手の立場になって考える。
相手の幸せを願う。
思いやりのある人は、周りの人から好かれ、尊敬されます。また、思いやりのある人は、自分自身も幸せになります。思いやりのある人になりたいと思ったら、まずは、周りの人のことを考え、行動することが大切です。
誠実と思いやりの例を参考に自分は誠実で思いやりがあるのだろうかと思っています。
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