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偏見、差別は無知から起こるのではなく心が通じ合っていないから起こるのです。今日の写真はミートソーストマト増しスパゲッティ。

偏見差別は知らない事から派生する恐怖です。
自分と異なる事を知り受け入れないのです。
間違って 伝わってきた事への不信感です。
心が偏見差別を生じさせているのです。
偏見差別は五感から作られた壁です。

差別する側、される側の心の交流が唯一の差別偏見をなくす事です。
偏見差別があるのが当たり前だと心が思っているのであれば差別偏見が無くなることはありません。差別の原因が無知であるのならば知る努力が必要です。偏見差別があって当たり前だと思っていたら、なぜ偏見差別をしているのか疑問を持たなくなるのです。

偏見差別を無くそうと呪文のように唱えているだけでは、無くなることはありません。偏見差別をしていることを認めてその原因を自覚して偏見差別をしない行動をしましょう。

考慮できない人、気づきのない人、思い込みの激しい人、自分と価値観の違う人、相性が合わない人、生理的に嫌だと思う人などわたしは偏見の塊です。相手の事をどれだけ知っているのでしょうか?何も知らないに等しいのです。

知らなくても仲良くできる方法があります。


それは相手の幸せを願う心を常に持つ事です。

何もしなくて良いのです。相手の事を知らないのに何かをしてもそれが相手の幸せになると言い切れるでしょうか?余計なおせっかいで不幸にするかもしれません。「わたしの不幸を救うために援助してください」と言われたならば援助すれば良いのです。

相手も同じように相手の幸せを願っていたならば不幸せになることはないと信じています。心の底で「自分だけが幸せになれば良い」と思っている人にうわべだけの「相手の幸せを願っています」感を出していても、いざとなった時に本心が現れて困ったことになるのです。

困ったを解決する方法は、疑問を持つ事です。なぜ困っているのだろうか?原因はどこにあるのだろうか?どのような結果を望んでいるのだろうか?
到達点がわかっていないのに出発すると迷子になります。

幽霊に出会いました。足はあります。白装束ではありません。声と姿が同じなんです。会いたいと思っていた人ならば怖くありません。幽霊は怖いものだと思っていたのに会いたいと思っていた人が幽霊になって現れたならば怖くないのです。

幸せになって欲しいと思ってる人に出会ったら、笑顔で対処できますが、何も思っていなければ相手の態度、素性、雰囲気で自分の態度、素性、雰囲気を変えてしまうのです。

第一印象でその人の評価を決めてはいけないのですが、笑顔であれば印象が悪いとは思われないでしょう。同じ笑顔でも作った笑顔と心が表現する笑顔では伝わる印象が違うのです。

笑顔にする必要はありません。心の中に相手が幸せになって欲しいと祈る気持ちが常にあれば良いのです。それは、暗示ではなく真実です。それを明示したいと思います。

相手の幸せを願いながら相手の幸せを奪う事をするでしょうか?相手の幸せは自分の幸せと同じとは言えないのです。

相手の嫌がる事をしない、自分がされて嫌なこともしない。なぜなら相手の嫌がる事をすると反撃されて自分の嫌な事をされるのです。自分がされて嫌な事をするのも同じように反撃されても仕方がないのです。

反撃できないぐらい相手の嫌な事をして、自分が幸せだと思うような心を持つ事を防ぐ事はできません。だから、思うだけでは罪に問われないのです。

自分の心の中は、行動、表情、態度となって現れるのです。知識や知恵が心を作っているのではありません。心が知識や知恵を作っているのです。心が最初にあるのです。

いくら知識があっても思いやる心がなければ思いやることはないのです。
差別や偏見を無くそうと知識や知恵を絞っても本心ではどうでも良いと思っていたならば答えは出てこないのです。

答えはあるのです。それは相手の幸せを奪わない事です。相手の幸せを知りそれを奪ってしまう事をしなければ良いのです。

仲良くしなくても仲悪くなければ良いのです。それは相手の幸せを願う事です。神様と仲良くなりたければ神様の幸せを願うのです。神様とは自然です。自然と仲悪くなると何が起こるかわかりません。仲良しになれば心を通わすことができるのです。

偏見、差別は仲良しになるか仲悪くなるかで揺れ動いている心の表れです。仲良しになれなくても、仲悪くならないように願う気持ちをお互いに持っていたら良いと思うのです。

事実を認めて困ったを解決することで不幸せから脱出できるのです。

#エッセイ部門 #たぬきのポッさん #スキしてみて

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