そのまま とは
2023年3月にある人とお話してたら、
「あかねさん、そのままでいいんですよ」と言われた。
自分のなかでは、その時は腑に落ちなかった。
クラニオの講座を受けている時も、
ただそこに居て、安心安全な場をホールドする。とか、
「自分の在り方」を問われる。
それも、頭ではなんとなくわかった氣になっていても、
腹落ちはしていなかった気がする。
それが、アーユルヴェーダの本を読みなおしたり、
いろいろなことが重なり、
クラニオ中に、腹落ちした!!!!
純粋意識というすべてが一つのところから、
個別性がうまれ、その個別感があるからこそ、
嫉妬・妬み・争いが生まれる、
逆に、愛・慈しみを感じられるのも、個別であるがゆえ。
アーユルヴェーダでは、自我を幻だと言っている。
ここからは、想像。
全てが一つだった純粋意識から個別になったから、
人はそれぞれすこーしだけ寂しい状態で生まれてきてる。
生まれてきただけで、そこにいるだけで、
存在を愛されて育つ赤ちゃん期。
幼児・児童と育つにつれ、
何かしら条件が付いたりしてしまう。
私(41歳)が育った時代は、まだその色が濃いだろう。
働かざる者食うべからず。。。と言われていたし。
何かしないと何かを得られない、という条件も付きやすいのかも。
同居の祖父母、忙しくする両親、歳の離れた姉たち。
特に何か劣悪な環境だったわけでも、ない。
そんないわゆる普通の家庭で育った私さえも、
自分の中には、意識されていない条件付けが、
他にもたくさんあるのだろう。
ひとまずは、「何かせずには居られない」「何かしなければいけない」
と思ってるんだな~というのに、氣づいた。
自分の存在価値が、何かすることだから、
そのままでいい、何もしない、それって価値ある?
私それで大丈夫?
何もしない私はそれでも一人にならない?
という不安でいっぱいだったんだろうな。
クラニオは特に、傍から見ていると
触れているだけで、何もしていない。
(実際は身体の中の目に見えない波を感じているけれど。)
それはただ、ともに居て、
個別になった故の無意識下のすこーしの寂しさを補って、
安心安全をお互いに共有しているのだろう。
顕在意識がどう感じていても、潜在意識や身体が安心を感じていたら、
とても健やかに居られるんだろうと思う。
そう考えると、エネルギーワークや、遠隔も同じことなんだと思う。
ただそこに居る、それだけでいい、
ただ私のままそこに居る・在る
何のジャッジもせず、ともに居る・見守る
そこには自分の身体をいつもより感じている(感じようとしている)人と
ただそれを見守る人がいるのみ。
それでもいいんだ、という安心感に感動する。
何かしないとNGだと思っていたのに、
何もしない方がむしろOKという、価値観の大変化。
それを学ばせてもらっていることにも感謝。
ここまでの考えになるには、娘たちからの影響が
はかり知れない。ありがとう。
そして今、自分のやりたいことを子どもたちに邪魔されてる氣になって、
時間が無いな~と思ってるのも、まやかしなんだろうw
色々な方法で、私の変化を促してくれる存在。
そういう視点で見ると、いろいろなことが違って見える。
ただ、自分の価値観を大きく変えられている時だから、
とっっっっってもしんどいけどw
でも、それが今必要で今起きているんだろうと思う。