『そのとき』にしか創れないものがある
中学1年生の春、なんとなく部活動には入ろうと思っていた。自分は運動音痴だと薄々気付いていながらも、なんとなく運動部に入ると「なんか部活っぽい」感じで楽しそうだなと漠然と思っていた。入学してすぐに席の近かった友人がバスケ部に入ると言っていたので、私もバスケ部に入るのだろうなと思っていた。
ゴールデンウィークごろに文化祭があった。演劇部の発表を見た。
1週間後、私は自分でもよくわからないまま気がついたら演劇部に入部届を出していた。
私が入学したのは阪神間の某中高一貫の女子校だったのだが、風土的な影響か、演劇部は宝塚歌劇団の演目をガチでやっていた。
当時すでに宝塚歌劇団のファンであった私は、目がハートになった…
ということでは実はなく、おそらくそれまで「観るもの」だと思っていたことが、思いのほか易々と目の前で「やるもの」になっていたことにその時気づいたのだろう。今思えばごく自然な成り行きだった。
それから、長い夏休みも寒い冬休みも曜日も問わず、稽古に明け暮れる中高6年間(正確には引退のため5年間か)を過ごした。長期の旅行などに目もくれず、休みの日に他校と交流なんかして彼氏のひとりも作ろうなんていう思考は皆無だった(それはそれで大問題)。
とにかく日々の稽古が楽しくて仕方がなかった。
しかし思春期の真っ只中、上下級生の軋轢や同学年の同志とのいざこざももちろんたくさんあった。自分のことも周りのこともわからなくなって、ふとんの中で毎日ひとり反省会。大変苦しい時期もあった。
それでも演劇部はやめなかった。というか、やめたくなかった。
どうも部活動をやめて舞台を降りることは自分への「敗北」だと思っている節があった。演劇部の発表を客席で観客として見ている自分を想像したとき、その風景をどうしても受け入れることができなかった。
もうちょっと自分に踏み込んだ理由もあるにはあるけど、ここでは割愛。
あれから四半世紀以上。演劇部を卒業しても、演劇を卒業することは今もついに出来ていない。
高校を卒業してからも、むしろもっと深みに足を踏み入れたい、永遠に日々が未知で新しい、そんな演劇という世界にどっぷり浸かっていたい、その一心だった。
そのがむしゃらな熱意だけではきっと難しかっただろうが、道の途中での多くの尊い出会いと手厚い支えのおかげで、44歳の現在まで演劇三昧の日々を過ごさせてもらっている。
35歳を越えたくらいから、ありがたいことに高校演劇コンクールの審査員や演劇部員のための合同演技講習会の講師として招いていただくことが増えた。
コンクールや講習会に勇んで参加していたあの頃の高校生の私からすれば考えられない、本当に幸せなことである。
そんな私にはあの頃気付けなくて、最近になって気付いたことがたくさんあって、近年私はそれをものすごく誰かに伝えたくなった。
「『そのとき』にしか創れないものがあること」。
中学生・高校生のそのときにしか演じられない、書けない、創れないものがあること。
決して立派な作品として成立しなかったとしても、そのときの感性や身体でしか醸し出せない切実さは、言葉にしても演技にしても、もう二度と私の身体に宿ることはない。
いろんな人の『今しかない』を少しでもたくさん演劇として、記憶としてのこすために。
「脚本ってどうやって書くん?(てか、私なんかが書いていいの?)」
「『演じる』って簡単に言うけど、結局どういうこと?」
「舞台上での効果的な見せ方って、どうやったらできるん?」
「実は裏方がやる具体的な作業とか用語とかわからん…」
そんなあの頃の私の思いにも応えたくて、
中学生・高校生のための演劇ワークショップをつくりました。
(たぶん次回の記事につづく)