見出し画像

無為自然|何もしないで達成する(3)

前回からのつづき。「何もしないで達成する」を考えるにあたって、まずは「何もしない」という誤解をとき、そして「何もしない」の落とし穴を明らかにしつつ、以下のポイントにたどり着いた。

  • 「何もせずに」=「がんばらずに、努力せずに」

  • 現時点があって、努力や時間を重ねて、ようやくできる状態に変化する…ではない

  • できない現状があって、ゴールがあってギャップを埋めていくことではない

その代わりに

  • 意図よりも自然の流れに従う

  • 委ねる

  • 物事を起きるがままにする

  • タイミングを待つ…など

代わりとなるポイントは、非常に漠然としていて掴みどころがない。放棄したり逃避したり、人任せにすることではなく、能動的な「しない」とは何か。それをもっともっと明らかにしていきたい。

能動的な「しない」=ゴールを諦める

これまで分かったポイントから紐解いていくと、他には、ゴールや目標を諦めるということではないかとも思う。以下の一節を読んだとき、そう思った。

一、蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘/びく)は、この世とかの世とをともに捨て去る。----蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

『ブッダのことば スッタニパータ』第一 蛇の章

この文章の後にも教えは続き、それらのひと言の最後には必ず「この世とかの世とをともに捨て去る。----蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」とある。

正式な解釈ではまったくなくて恐縮だけれど、私がこの文章を読んだときこんなふうに感じた。まず怒りは往々にして人が対処に困っている感情のひとつだ。囚われたらカッとなって我をも忘れたりする。信じられない行動に出たりもする。私はイラッとすると、身体中にモヤモヤとした物質がぐわっと駆け巡る感触があり非常に気持ちが悪い。

その怒りを制御している人、制することを成し遂げる人というのは「この世とかの世とをともに捨て去る」とある。つまり、この世(現状)や、かの世(ここではないどこか)への執着を手放しているということではないか。修行者にとって、かの世、つまり彼岸であり、悟りのひらけた世界へ至ることは望みであるけれど、その望みがまた蛇の毒のような怒りにまみれることを許してしまうということではないだろうか。この世とは、今、自分が置かれている状況(悟れていない状況)に囚われすぎてしまうことを表しているのではないか。

つまり、行きたい先(ゴール)はここだ、目標はこれだと思えば思うほど現状に落胆したり、なんとしても達成しなければとゴールや方法に固執したり、焦りが生まれ、執着が生まれてしまう。そうしてゴールを達成できていない今に注目しすぎると、私にはできないんじゃないか、このままでいいのだろうか、と迷いが生じ、動けなくなってしまう。ならばいっそ、一旦諦めてしまおうということではないのだろうか

私たちがすることは、この世(現状)や、かの世(ここではないどこか)への執着を手放して、粛々とやることをやる、それだけでいい、それがすべてだということではないだろうか。

私たちの中に、どこか、目標は立てなければならないという気持ちや、目標を立てること、ゴールを設定することを是としすぎるきらいがないだろうか。

目標やゴールを設定することが悪いのではない。修行者にとって彼岸に至ること掲げることは大切だ。だけれど、もしかしたら私たちは、ゴールを達成することに執着しすぎて、そもそもなぜそのゴールを設定したのかという大切なことを見失ったり、達成する過程で人を傷つけてしまうなど、望まないことをしてしまう場合があるのではないか。だから、ゴールを諦めるのだ。

「諦める」の意味合い

この「諦める」という言葉についても考えておきたい。

「諦める」というとなんだか途中で挫折するようなイメージがある。しかし、本来「諦」という漢字には、「つまびらかにする」「明らかにする」という意味がある。なので、諦めるということは挫折でもない。詳細に、明らかになったということに過ぎないのだ。そして付け加えるとするならば、降参するイメージである。

物事の道理や真理をあきらかにしたところ、それが大きすぎることに気づく。そこに対して、いち人間が自らのエゴ(自らの欲求)で思い通りにしようと画策することは太刀打ちできない降参する…そんなイメージだ。これが「諦める」の本来の意味なんじゃないか。

つまり、ここまでのポイントはこういうことだ。

何もせずに達成する=ゴールや目標を手放すことで、逆に近づくもの

でも、ゴールや目標を手放したらどこへ向かったら良いかわからないじゃないか!という気持ちになる。そうなのだ。ゴールや目標は北極星だと思う。常に方向性が分かり、だから自分の現在地が分かるし、どちらに進めば良いかも分かる。ゴール、つまり北極星が見えない状態でどうやって旅をするか。その助けが羅針盤(方位磁石)だ。何が羅針盤になるのか。

老子の語る「無為(むい)自然」

「何もせずに達成する」ということを掲げると、自然と、しかし随分経ってから老子にたどり着いた。私にとってはいきなり答えをもらうよりは、この寄り道が必要だったのだろう。「何もしないをする」「何もせずに達成する」ことの究極的なお手本が老子の「道」であり、「無為(むい)自然」である。

無為自然とはどういうことか。この解釈は私にとって100%完璧というものがないようにも思ってはいる、つまりずっと探求し続けることだと感じているのだけれど、現時点での学びをまとめておく。

道(みち)は常(つね)に無為にして、而(しか)も為(な)さざる無し(第三十七章)
(道はいつでも何事も為さないでいて、しかもすべてのことを為している。)

「無為」という言葉は「無為無策」「無為に過ごす」のように「なにもしないでいること」という意味でよく使われますが、『老子』で使われている「無為」は「意図や作為のないさま」という意味です。これは、一切なにもしないということではなく、作為的なことはなにも行なわないことと、とらえてください。
では、「作為的なことはなにもしていないのに、すべてを為している」とは、どういう状態か。天地を例にして考えてみると、天や地は意思をもたないから常に「無為」の状態といえますが、無為でありながらも、その働きは常にこの世界全体に行きわたっています。季節はめぐり、太陽は大地を照らし、雲は雨を降らし、大地の上では植物や虫や動物がそれらの恩恵を受けて育っていく。つまり「なにかをしようとわざわざ考えずとも、天地はすべてのことを為している」ということになるわけです。
そう考えていくと、『老子』でいう「無為」とは、意図や意思、主観をすべて捨て去って、「道」(天地自然の働き)に身を任せて生きているありようを意味しているといえます。『老子』はこの「無為自然」を理想のあり方としました。

NHK『100分de名著 老子』

ここでの大きなのポイントは、作為的なことをしないということ。つまり自分の都合を望んだり、意図をもったり、そういったことを削ぎ落としていくこと。そして「道」(天地自然の働き)に耳を澄ませること

「作為的なことはなにもしていないのに、すべてを為している」というのはなんともカッコいい。

分かりやすく解説もしてくれているから分かった気持ちになるのだけれど、「自然」とか「天」は、いかんせん、でかい!大きすぎる…。圧倒されたところで、次回へつづく…。

この記事が参加している募集

もしサポートいただいた場合は、私の魂の目的「繁栄」に従って寄付させていただきます!(寄付先はいずれか:認定NPO法人テラ・ルネッサンス、公益財団法人プラン・インターナショナル・ジャパン、認定NPO法人ACE…)サポートがあった場合月ごとに寄付額を公開します!