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すずめの戸締まり考察③〜新海誠作品を「距離」と「時間」で読む〜

考察①、②の続きとなります。長くなりますが、お付き合いください。


4、「距離」と「時間」に着目して

 新海誠作品について考える時、「距離」と「時間」がキーワードになることを、私はこれまでずっと感じてきた。ここでは「距離」と「時間」に着目し、これまでの作品の傾向に迫っていく。



4–a、ほしのこえ

 まず、2002年「ほしのこえ」では、宇宙と地上に引き裂かれた男女の恋愛物語であり、宇宙と地上との物理的「距離」の隔たり、そして「時間」のズレが描かれている。その物理的距離によって生じる心の「距離」が、二人を少しずつ、少しずつすれ違わせていくのである。

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「私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ。」



4–b、秒速5センチメートル 
 
 2007年公開の「秒速5センチメートル」では、さらに顕著に「距離」と「時間」が男女の恋愛の弊害として立ち現れてくる。

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「どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか」


   
 
主人公の遠野貴樹とヒロインの篠原明里は、小学校時代の同級生だった。親が転勤族で転校に慣れていた二人はすぐに意気投合し、距離を縮めていく。お互いがお互いを意識し合っていることを自覚しつつ、それでも「好き」とは言わないまま、ただいつまでも二人でいるのだろうという不確かな未来に、明確な自信を持って過ごしていた。



 しかし、中学校入学と共に明里は栃木へと転校し、幼い二人の前には強制的に「距離」という壁が立ちはだかった。その壁を簡単に乗り越えられるほど、二人はまだ大人ではなく、それでも一度だけ、大雪の日で電車が止まってしまい、約束の時間を大幅に過ぎながらも、貴樹は明里に会いに行った。


時刻は待ち合わせを3時間以上過ぎ、当然明里は家に帰っただろうと思いながら、貴樹はゆっくりと電車を降りる。

しかしながらそこには、誰もいない駅のホームで一人待つ明里の姿があった。二人は夜の煌めく雪の中でキスをして、翌朝まで二人きりで過ごし、朝に別れる。



 しばらくして、貴樹の転校が決まった。鹿児島と栃木という途方もない距離が横たわり、その距離の前に二人はどうすることもできない。



 長らく続いていた文通も途絶え、音信不通となって何年も経っても、貴樹はずっと、明里の姿を追い求めてしまう。届かない存在だとわかっていてもなお、追い縋ってしまう。

新しい彼女ができても、分かり合えない。貴樹の目には、遠い記憶の中で、駅のホームに一人きり待つ明里の姿しか映っていないからだ。


 いくら時間を重ねても変わらない自分自身に、これじゃダメだとわかりつつも、変われない、
それが秒速5センチメートルでの「遠野貴樹」である。



「遠距離恋愛」という物理的距離、そして徐々に離れる二人の心の「距離」。遠距離の相手に会いに行くためにかかる「時間」、そして大人になるまでにかけた「時間」と同じだけ賭けた叶わぬ恋への憧憬。

「秒速5センチメートル」では、殊更に距離と時間が、二人を切り離す壁として、クローズアップして重くのしかかっている。



4–c、星を追う子ども

 2011年公開の「星を追うこども」では、喪失を胸に抱えた人々と、死者との「距離」が描かれている。

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「それは、“さよなら”を言うための旅」



 主人公の明日菜は、ある日アガルタから来たシュンという少年に出逢う。明日菜とシュンは心を通わせるが、ある雨の日に、シュンが崖から飛び降りて死んでしまったことを知る。


 シュンの死を受け入れられない明日菜のもとに、アガルタを研究しているという教師、森崎が現れる。


彼曰く「アガルタ」とは地下世界であり、死者の魂が行き着く場所だという。

森崎は愛する妻を喪っており、彼女にもう一度会い、生き返らせるため、アガルタを目指していた。


もう一度シュンに逢いたい明日菜と、亡き妻理沙に逢いたい森崎。死者の影を追い続ける二人は意気投合し、地下世界「アガルタ」を目指して旅に出る。

 「生きているもの」と「死んだもの」。そこには決して超えられることのない「距離」がある。

明日菜と森崎はアガルタでの旅を通して、それを実感していく。特に、最後の場面において印象的な台詞を取り上げたい。

「喪失を抱えて、なお生きろと声が聞こえた。それが人に与えられた呪いだ。」
「でもきっとそれは、祝福でもあるのだと思う。」


「星を追うこども」では、主人公が旅を通じて「死」や「亡き人への想い」に触れ、
苦しみの果てに喪失を受け入れて進むという、これから先も生き続ける人の在り方が描かれていると言えるだろう。




4–d、言の葉の庭

2013年、「言の葉の庭」では、靴職人を目指す男子高校生秋月孝雄と、精神を病んでしまった高校の古典教師の雪野由香里が登場する。二人は雨の日の新宿御苑で出逢う。

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「愛よりも昔、孤悲(こい)のものがたり」


「雷神の 少し響みて さし曇り 雨もふらぬか 君を留めむ」
「雷神の 少し響みて ふらずとも 吾は留らむ 妹し留めば」


 雪野が呟いたのは万葉集の恋歌である。それに対して、孝雄も返歌をする。

お互いに淡い恋愛感情を抱いていることを自覚しながら、しかし二人の間には抗えない「距離」が流れていた。それは、「歳の差」である。


 
 教師と生徒という明確な距離がそこにはあった。そして同時に、雪野はもうすぐ実家のある愛媛に戻るという。雪野がいなくなるまでの「時間」は、もうそこまで残されてはいなかった。


二人はお互いに、雨の日の新宿御苑で心の穴を埋め合いながら、最後には違う方向を向いて歩き出す。孝雄は靴職人を目指して。雪野は自分の居場所をもう一度見つけるために。




4−e、君の名は。

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「まだ会ったことのない君を、探している」


  
 2016年の「君の名は。」では、よりシンプルに「距離」と「時間」の乖離が描かれている。

 まず、主人公の瀧が住んでいるのが東京であるのに対し、ヒロインの三葉が住んでいるのは岐阜である。ここに物理的距離が見られる。


 物語が進むにつれ、二人にはもっと時空的な「距離」と「時間」のズレがあることがわかる。

それは、瀧と三葉の入れ替わりが、3年の時を挟んで行われていることである。

瀧を主軸にすると、入れ替わっていたときの三葉の世界は「3年前」であり、実際の瀧と三葉には3年の歳の差があるといえる。


映画では、三葉の使うスマホがiPhone5なのに対し、瀧のスマホはiPhone6となっている等、細かいタイムギャップの証拠が隠されていたことは言うまでもない。



 これまでの傾向と違うのは、「君の名は。」においては、「距離」と「時間」の弊害を飛び越えて、二人が再会するという点である。

「秒速5センチメートル」や「言の葉の庭」では、距離と時間を前に屈する男女の姿が見られるが、「君の名は。」では、カタワレ時、ラストシーンと、二度も再会する。


特にラストシーンでの再会場面は、歩きながらすれ違った男女がお互いに振り返り言葉を交わすことから、『「秒速5センチメートル」のリベンジ』『「秒速5センチメートル」の悪夢が解けた』と表現する人も多く見られた(笑)。著者もその口である。



4−f、天気の子

また、2019年の「天気の子」では、人柱になり天空に誘われた陽菜を助けるため、帆高が地上と天空との「距離」を超えていく。
空の上で再会した二人は手を取り合って地上へと降りる。

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「これは、僕と彼女だけが知っている、
世界の秘密についての物語。」


その後、帆高は実家に帰り高校を卒業し、大学入学と共に2年ぶりに東京へとやってくる。「」が経ち、少し大人びた陽菜と再会する。

ここでも「君の名は。」同様、「距離」と「時間」を飛び越え再会する男女の姿が明確に見られるのである。



4−g、すずめの戸締まり

そして今作の「すずめの戸締まり」もまた、「距離」と「時間」が関わっている。

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「行ってきます。
扉の向こうには、すべての時間があった」


 
 まず、実際にすずめは九州から東北まで、日本列島を横断する形で移動している。物理的「距離」の移動が見られる。 

 

 さらに、災いを封じ込む戸締まりの際には、過去の記憶を想起し、その想いに馳せる。「時間」を飛び越えて、人々の「想い」に祈るのである。



 また、常世の世界では、現世とあの世の「距離」が別世界という形を持って描かれている。踏み入れるべきでない領域として、確かな境界線があることがわかる。




 また、東京で要石になったはずの草太が、東北の地の扉からすぐ近くにあったことは、常世が「距離」と「時間」の混濁した場所であることを示している。


新海誠作品において、現実世界で嫌と言うほど描かれてきた「距離」と「時間」が、常世ではその概念すらないというのもまた、非常に興味深い対比であるといえるだろう。




5、「距離」と「時間」から見る新海誠作品

 さて、ここまで「距離」と「時間」に着目して新海誠作品を考察してきた。「距離」と「時間」が男女の恋愛の障害として描かれていたり、はたまたそれらを飛び越えて再会する物語があったり、多種多様な描かれ方がされているのは言うまでもない。


では、ここから本題に移りたい。本作「すずめの戸締まり」における「距離」と「時間」の構図は、これまでの新海誠作品のどの作品に類似を見出すことができるといえるだろうか。


著者は、「すずめの戸締まり」と「星を追うこども」に確固たる類似性を見出すことができると考えている。

それは、どちらも現世と死者の世界(すずめでは「常世」、星を追うでは「アガルタ」)に明確な境界線があること、そして、主人公がその「距離」を超えて好きな人に逢いに行こうとする点があげられる。

そしてなにより「喪失からの再起」が主軸を担う点に、この二作の関連性を見出さずにはいられないのである。


次の考察④では、「星を追う子ども」と「すずめの戸締まり」を比較し、「すずめの戸締まり」における主題へと考察していく。

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