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日々よしなしごと~時間がかかること~

2019年から友人の茶人たちと『小さな茶会』というのを開催してきた。60歳になって、20代の頃にやっていた茶道をずーっと中断していたのを再開して6年経ってのことだ。

茶道は60の手習いとしては深くて手強い、でもめちゃくちゃ魅力的な習い事だ。ところが今の世の中、特に若い人の茶道を習う人は減る一方という現実も見えてきた。本当に勿体なあ、こんな素敵な世界を知らずにいるなんて・・・でも、茶道なんてきっと若い人にとっては、ハードル高そうなとっつきの悪いものに見えるだろうな。時々すごく興味を示し憧れる人も私の周りにはいた。

そんな若い人や本当は習いたいけど、どうしたらいいか分からないという人向けの本格的な茶会をやろうとお茶仲間に声を掛けたら、いろんな流派の人たちが6人集まり企画したのが「小さな茶会」だった。2019年は季節ごとに5回開催し毎回満席で、これからも続けようと2020年の春にも予定していたがコロナ禍で中止。再開したのが1年ぶりの2020年の12月だった。主催する私たちが一番心待ちにした茶会だったかもしれない。

私たちの最大の目的は、この茶会をきっかけにどの流派でも構わないので「お稽古」を始めて欲しいということだった。

なぜお稽古を始めて欲しいかと言えば、逆説的だけど、茶道は、お茶の飲み方を知ったりや点前を上手にしたり難しい点前を覚えたりというのが最大の目的ではない。点前のスキルと心のあり方というか、精神性と所作が心技一体となる境地がひとつ目指すものではある。茶は禅に通ずと言われるのもそんなところからだろう。とはいえ正直私だってまだまだそんな境地に至っているわけではない。道は長いのだ。

でも、最近時々不思議な感覚になる瞬間がある。静かに点前をしていて自然に身体が動きひたすら点前のことしか考えない時に、とても幸せな感情というか至福感を覚える時がある。とても満ち足りていて茶室の中にいる客と一体になっているというか・・・・

この時間はせいぜい10分か15分くらいなのだと思う。それでもその後とても頭がすっきりとしてなんとなく体も浄化されたようで、ものすごく気持ちがよかった!と思えるだ。この感覚は若い時に習っていた時には味わわなかったことだった。

これはおそらく「自然に身体が動く」ということがとても重要で、マニュアルを辿るような点前の中では起きない現象。点前のことしか考えないというのは順番を間違えないように、というのではなく、その一つ一つの動作を心こめて丁寧にしようという気持ちになっていたことに気がつく。

自然に身体が動くようになるには、つまり稽古をするしかないということ。

茶の世界はさらに深く広いので、点前をすらすらできるようになることは、あくまで通過点であってまだまだ学ぶことは限りなくあるが、この段階は大事なマイルストーンなのだと思う。

時間が掛かること。時間をかけないと分かり得ないこと。

そのことを知らず知らずにたどり着くことができるのは「稽古」だけなのだと最近やっとわかった。


今の世の中、スピード感とか回転の速さとかが求められる。でも、人間にも、地球や生物全体にとっても、それだけではなく時間が掛かることやすぐには答えの出ないことも必要なのではないか。このバランスはすごく大事と思う。

もうひとつお茶に関しての大事なこと。およそ400年前に千利休が大成したという茶の湯の心を、現代に生きる私たちも強力に惹かれその真髄を探ろうとすることの不思議さ。どんなに科学やテクノロジーが進化しても、その真逆にある超アナログでスローな世界にまだまだ留まり探りたいというのは一体なぜだろう?

最近は外国人も茶道をされる方も多いようだけど、やはり日本人のこの特有の感性が、茶道を現代にも生きながらえさせているとしか思えない。この感性がひょっとしたらこれからの(アフターコロナ?)の時代にはとても大切にしていくべきものかもしれないな・・・・なんて。

さて、2021年も全く見通せないけど、一昨年から始めた「小さな茶会」も静かに続けて行くことにした。お茶の稽古もずっと続けていきたい。今や私の生活、人生には茶の稽古の時間はかけがいのない時間になっている。つくづく幸せなことだと思う。

だってゴールもないし、自分時間の中で熟成させることができるから。








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