もう、これが最後かもしれない
2歳の娘を見ていると、そう思うようになった。
綿毛のように、そっと頭を守っていた髪は背中にかかるほど長くなった。
乳児用マットにすっぽり収まっていた体はいつしか足が飛び出している。
言葉には意思がこもり、嫌なことも、嬉しいこともわかるようになった。
その姿を見ていると、
「もう、これが最後かもしれない」と思う。
ぽっこり出ていたお腹も徐々に収まり、少し垂れたほっぺたは大人の顔になっていく。公園で滑り台のうえで飛び跳ねることも、ブランコを押されて喜ぶこともなくなってしまう。
それは、当たり前で自立していくのは良いことなのだけれど、変わってしまう速度が早すぎて、置き去りにされているような気さえする。
そんなことを日々考えながら、この間、昔の職場の後輩と食事する機会があった。
数年ぶりに合う後輩からは、若手のときに纏っていた大学生の空気は消え、今では部下を持っているらしい。
当時働いていた人たちも部署や役職が変わり、古かったオフィスは真新しくなった。知っている景色はどんどんと無くなっていく。
食事の帰り際に少しだけ、別のメンバーとも会わせてもらった。
「あっ…!お久しぶりですね!!」
同じチームで3ヶ月間だけ一緒だった新卒。
「おぉっ…元気そうでよかったよ!」
同じ中途入社だった先輩社員。
4年前に繋がっていた緩やかな関係性が、今もそこに変わらずにあることがたまらない気持ちになる。
懐かしい人と出会うと嬉しいのは、多くが一瞬で変わる世の中で、変わらずにいることが難しいからなのかもしれない。
いろんなものが変わり、うつろいのある世の中だからこそ、今この瞬間をできるだけ多く残しておきたい。
出来事だけではなく、そのときの感情も鮮明に覚えておきたいと思う。
人生で振り返って思い出すのは、感情の記憶が深く残っている瞬間だけだ。
日々、何となく楽しかった出来事は、楽しかったような気がするだけで、よく思い出せない。
日々の仕事や生活の中で、自分の感情が鈍くなり、「楽しい」とか「苛立ち」とか、「切なさ」とか、そうした大きな括りでしか、感情を見つけられない。喜怒哀楽以外にも多くの感情があるはずなのに、常に無ではないはずなのに。
だから、うつろいゆく日々の中で、心の動きに耳を傾けていたい。そうした感情の動きを捉えるにあたって、1980年にアメリカの心理学者ロバート・プルチックが提唱した「プルチックの感情の輪」という理論が参考になる。
人の感情は基本とする8つの感情(喜び、信頼、恐れ、驚き、悲しみ、嫌悪、怒り、期待)が混ざり合って出来ている。
愛情は、喜びと信頼によるもので、後悔は、悲しみと嫌悪で成り立っている。
こうしてみると、人の感情はあまりにも複雑に出来上がっている。
それにも関わらず、多くのことを日々の生活で捉えられていない。
感情を誰かに委ねるのでもなく、無視するのでもない。深く潜るように対話する中で、日々の生活が深く焼き付いていくような気がする。