脳の萎縮を防ぐ努力を考える
ぼくは脳血管障害や脳の萎縮を防止することにとても強い関心がある。父親がそれで大変な状況になったからだ。「子の親殺し」の心境も味わった。
介護はテレビで観るのとは大違いだ。短期間ならあれでもいい、耐えられる人は多いだろう。
また、ゴールの日時がわかっているのなら、これも耐えられるだろう。しかし、ゴールは見えない。いつまで続くのだろう。こんな気持ちが毎日続くのだ。
さらに、状況はどんどん悪くなっていく。出来ていたことができなくなり、話の理解もままなくなり、夜はせん妄によって眠れなくなる。
こういった状況は、出来得る限り避けたい。避けられるものなら避けるべきなのだ。
この問題はぼくだけの問題ではなく、全ての人間の問題だと思う。他人事としてとらえている人もいるが、そうだとすると、脳の推論の機能がすでに衰えているのかもしれない。
ぼくは、この問題を解決する努力は避けてはならないと思っている。
今わかっているのは、脳血管障害は食生活の改善で、かなり高い確率で改善できるところまでわかってきた。
そして、脳の萎縮は、食生活だけでなく、習慣行動の変更や心掛けで、少しは予防できるのではないかというところまできた。
そして、次の問題は意識だ。意識を変えないと予防は難しい。脳には痛みがないからだ。痛みがないと、変更は困難なのだ。
痛みは、現在の自分の間違いを教えてくれる。しかし、脳自体に痛みはない。頭が痛くてというのは、脳血管障害によるものだ。
認知症になったからといって、頭が痛いわけではない。予防することは暗中模索状態になる。そもそも、予防すること自体が自覚のないものとの闘いだ。症状があっての行動は治療と呼ばれる。
ぼくの心、意識、思考、推論、哲学は、衰えていく心へのエクササイズを目指している。しかし、このエクササイズは生涯続くものとなるだろう。
というのも、健常な時には容易に理解できていたことが、話をしても理解できない状態になるからだ。それを防ぐのは不断の努力だろう。ストイックにではない。
理解して行動し、自分を変更できるなら健常なのだろうと判断してもいいと思う。
MRIやCTでいくら脳の状態を観察しても、見えないのが心の状態なのだ。
(脳の機能の衰えを防ぐことができなかった人から、さらに考えさせられる)