人間というもの: 哲学の理解

巷での哲学についての理解は、あまりにぼんやりとしていて釈然としないことがある。

「哲学は知恵の学問である」と言われて「なるほど」と思えるだろうか。
「哲学的に考える」と言われて「そりゃそうだ」と納得するだろうか。
「哲学って何の役に立つの?」という質問にはどう答えるだろうか。

何もかもがイラッとする。なんで難しく説明しようとするのだろう。

哲学は「考えることを考える」のだ。
今、私がこうやって述べていることを読んで、自分の考えと私の考えを比較しながら考えるのである。そして、そう考えることの答えは正当なのかどうかを考えれば簡単だ。

ハーショヴイッツが述べる哲学の定義は「考えることの技術」であるが、考えるにも技術がいるということだ。

科学哲学などは真偽をどう考えるかを考える哲学である。
マスコミやSNSで発信されていることの真偽やその背景にあるものは何なのかを考えることは哲学である。

普段思っていることは哲学ではない。
思っていることは考えることとは違うんじゃないかと考えるのは哲学である。

成功哲学についての真偽を考えることは哲学であるが、成功法則を身につけることは哲学とは違う。

哲学者の話を覚えこんで周囲に披露することは哲学とは違う。

自分が理解していない難しい話を自分の知識のように思い込むことは哲学とは違う。

哲学は今考えていることについて考えるのだ。

こんなこと述べているが、自分の好みを述べていないかと考えるのは哲学だ。

「哲学がなんの役に立つの?」という質問には「思考力が身につく蓋然性がある」とでも言っておきたい。

そもそも「役に立つからそれをする」と言うなら、哲学よりも本能に従った方がいい。
哲学は本能から理性へ移行するために使うものだ。理性から本能へ移行するにも本能ではなく理性がいる。

こんなことを考えることは哲学である。

不満から満足へ向かおうとする思考は哲学である。

「考えても仕方がないことは考えなくていい」と言う人もいるが、それは「思わなくてもいいことは思わなくてもいい」と間違った使い方をしている。
考えなければならないことは考えなくてはならないのだ。考えればわかることだ。

考えすぎて頭が痛くなると言う人は、思い過ぎて頭が痛くなるので、しっかりと考えると頭が痛いのは消えるものだ。

はっきりと言えば、考えることは役に立つからするのではなく、能動的な意思を使うことに従うと自然に考えるのだ。

そうすると、本能に従ってばかりいた習慣により生み出される煩悶や苦悩が消えていくことでもわかるように、哲学は心を健常に保つことに寄与するのである。

哲学的思考というのは、思考から生み出された答えがデタラメではなく普遍的なものに向かうものだ。
思いつきが自分だけの好みに偏りがちなのと比べると違いが明確になる。

こういったことが哲学なのだが、記憶力のオバケたちが簡単なことを難しくして、哲学と日常を分離しようとする。
そのことを全く考えていないように思えるので、真の哲学者はいないのだろう。

哲学についてはもう少し言いたいことがあるのでさらに考えて記事にしたいと思っている。