後悔について考えたこと
後悔という気持ちは心地よくない気分を生む。無知であることやたまたまによって、自分にとって良いと思うことや悪いと思うことは起こるものだが、それをコントロールすることなど出来ないのではないだろうか。
先日、ある哲学モドキの本を読んでいて、後悔は「あのとき他のやり方があったのではないか」と考えるからだという話があった。私は腑に落ちない。
そう考えるのは、失敗などの解釈や分析が十分に済んだ後に考えることではないだろうか。
人間の功利的な心を持つ生き物だ。損得感情が満たされれば後悔もクソもない。「あの時、あのせいで得をしてしまった」とは言わないのだ。
自分が選択してうまくいった時には、「自分が選択したことによってうまくいった」と言い、また、「あの時、勧めてくれたからうまくいった。自分で選んでいればとんでもないことになっていた」とも言う。
結果の良し悪しで後悔が生まれたり生まれなかったりするものだ。
心は損をすると、「あの時、あのせいで損をした」とう気持ちが生まれ「本当ならもっと得していたはずだ」と解釈する。要するに損得感情が刺激されるのだ。
得をした時に「あの時、うまくやっていればもっと損をしたのに」と後悔することはまずない。
自分が望み期待していたことが裏切られると心は揺れ動く。それは死ぬつもりだったのに生きてしまったことでも起こりうる感情である。
「他のやり方があったのではないだろうか」という思考は建設的でもある。そういった思考が全くないとはいえないが、やはり人間は損得感情によって心は動き、得をすれば喜び、損をすれば悲嘆し、そして後悔するものだ。
そして、「何であの時に…」と思い始めて、人によっては「他にもっと上手いやり方があったのではないか」と自分を責めることもあるが、必ずそうなるとはいえない。
失敗したことに対する納得の仕方は後悔の感情を上回るものでなくてはならない。
事故した後に「事故はしたけどこれくらいで済んでよかったやん」「事故のおかげでいろんなことに気づかせてくれた」「あの事故がなければ…」と失敗を肯定的に捉えようとすることでもわかる。よく言えば失敗を得に変えようとするということだ。
後悔は、単にうまくいくはずだったのにうまくいかなかったという結果に生じる感情なのだろう。
重要なのはその感情の次にくるものだということがわかる。それをどう考えるかによって次の人生は良くも悪くもなるはずだ。
後悔は一時的な感情によって生まれ、それが本当に正しい解釈かどうかも疑わしい。
損と得は「万事塞翁が馬」の話と同じで、どう解釈するかはいろいろできる。
生と死の話は死んだ人の後悔の話は聞けないので、良いのか悪いのか何とも言いようがない。
私は後悔という気持ちは不快であるということから、損得感情は人間的ではなく動物的であることを示しており、それを乗り越えることで人間的な心を作り上げていくと考える。
後悔はそのためにあり、そうすることで苦悩から遠ざかる働きを持つのではないかと思えるのだ。
つまらない話のように思われるかもしれないが、そのつまらないことに捕まるとどうすることもできなくなる人もいる。大きなことよりも目の前にある小さなことを解決していると人間とは何だろうという答えが見えてくるようにも思える^_^