何のために生きるのかという問い…

「何のために生きるのか」「生きる意味は何か」と問う人は多いようだ。
その問いにはいろんな答えや考え方があり統一された答えはない。
答えを示したところで実践に移すこともなければ納得することもないようだ。課題が違うと答えが違うからだろう。
私がそのことについて助言するとしたら、落ち込んだ時や不安な時、出口が見えない気分の時は、その問いはやめた方がいい。
元気な時にハッタリをかましたり威勢のいいことを言いたがるのと反対の状況になるからだ。
生きる意味を問いたがる時はたいてい物事がうまくいっていない時だ。
理想的な人生から現実が離れてしまった時に問いたがるものなのだ。
魅力的な人に出会って恋に落ち、裸で抱き合っている時には決して問わないのだ。
大金を手にして好きなものを好きなだけ買い、周囲から称賛され大盤振る舞いをしているときにはけっして問わないのだ。
いつも、何となく生活が理想と違っていて、何となくうまくいっていないような気になり、このままでいいのだろうかと思っているときに問いたがるのである。
生きる意味の答えにはならないが、生きる意味を問いたがる意味ならここから答えが見出せるのではないだろうか。
その問いは、無為に過ごす生活への不満から生まれる問いをうまく生きることへ転嫁させることができる。
生きる意味を問い始めたら、その答えを見出そうとするよりも自分の生き方や生活態度を見直したり、変化させる時なのだと解釈した方がいい。
生きる意味はそうやって使うべきだと思っている。
これまでに、私はその問いの答えを示してみても何も解決しなかったからわかるのだ。
求める答えはそれじゃないのだとわかった。本気で答えを探しているわけではないことに気づいたのだ。
おかげで私はその問いの答えを明確に感じ取ることができたが、巷での問いの答えとは違うようだ。
本当は、それを問う人は、言葉にうまく表せなくても何となく答えはわかっているのだ。現実がそれに導いてくれないから不満なのだ。
曖昧な物言いになったがこれくらいで丁度いいのではないだろうか。、

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