期待の使い方には注意がいる
「期待する」という気持ちは、将来に対して良い想像をするということだ。
悪い事が起こることを期待するともいうが、これは自分にとっての満足という良いことを期待するものだ。
この期待するというのは、よくハズレる。
ぼくは不幸の始まりは「期待」と「思い込み」だと観ている。期待していたことがハズレると、何かが崩れ落ちる感覚になる。
何度も何度も期待していたことがハズレまくると、次第に何にも期待しなくなる。期待することが苦しみを生むと悟るからだ。
期待という気持ちの働きは、心のメカニズムから考えると、「明るい未来を想像して前進する」といった気持ちを育むことに役に立っている。
期待を取り除いてしまうことは、よりよく生きていく上で武器を一つ失ったことになる。
期待という気持ちの使い方は、自分に都合の良い想像にとりつかれないことだ。この期待は、ほぼほぼ裏切られる。
自尊心が削られるくらいの衝撃もある。
憧れと現実を混同した結果である。多くは、憧れを憧れとして留めておかないと、現実化するまで追いかけ悩み、幻想だったと気づかされるまで苦しみ、気づいてからも悩むだろう。
期待という気持ちは、生きていく上で大切な気持ちなのに、苦しみの源にもなる。
かといって、それがないと「どうせワタシは…」とひねくれた人生を歩むことになる。
単にうまくいかずに、ひねくれているだけなのに、「私は何も期待しない」と、悟ったかのような使い方をにするようになる。使い方には勉強が要る。
他人の言葉をそのまま受け取ってはいけないことも多いのだ。
(期待しないと言ったり、期待すると言ったりフラフラしている人の話を聞いて)