「あの時は仕方がなかった」で許されるのか

誰にでも失敗はある。失敗のない人はいない。私は許される失敗と許されない失敗があると考えている。
戦争では嘘ばかりついて国民を誘導して多くの若者を戦地に送って殺した。それらに反対しようとすると、殺される側の国民も同調して非国民だと罵る。それは許されない失敗である。
それなのに、自分たちが間違っていたにも関わらず「あの時は仕方がなかった」と開き直る。「あの時は間違っていた」となぜ言えないのだろう。

先日、NHKでワクチンの後遺症による死亡についての放映があった。多くの人が死んでいるのだ。
それまでは「デマ」や「陰謀論」だのとの賜っていたのに、現実はそちらが真実だった。
「安全だ」「危険じゃない」「死んだ人なんていない」と叫んでいた人たちは何だったのだろう。まさか「あの時は仕方がなかった」と戦争時代の名セリフを吐くつもりなのだろうか。
知識人のつもりになっている人は、「あの戦争を忘れてはならない」などと格好つけて言うが何を学んだのだろう。同じことを繰り返している。
多くの人は自分に近しい人に不幸がなければ良しとする。それがいったん近しい人に不幸が訪れると非難を始める。それでは遅いのだ。

自分が正しいと「感じる」ことは、理性ではなく心理傾向である。誰もがその様に思うということである。それを乗り越えるにはものすごい努力がいるのだ。
何も考えずに、その様に思えるからという理由だけで非難や否定を始める。
詐欺師たちはその心理を利用する。
バカちんたちは、いつも反省せずに「あの時は仕方がなかった」と開き直るのでまた同じ失敗をするのだ。

考えることは簡単ではない。ワクチンひとつとっても、射つ射たないの判断は簡単ではないのだ。
「テレビが…」「専門家が…」といった判断材料で決定してはならない。
その情報源は何か、そのメカニズムは何かから考えなければならない。
また、「それを勧めることによって得る彼らのメリットは何か」「デメリットとは何か」「最悪とは何か」「それをしないで起こる最悪の事態とは何か」など多くの知識を必要とする。
そして、情報と宣伝を間違えてはならない。知識と宣伝を間違えてはならない。
誰でも間違えるものだ。
だからこそ可謬主義の立場から常に間違いはないかと探さなければならないのである。
そうすれば「あの時は仕方がなかった」と他人を不幸にしながら開き直る人生を送らなくて済むはずだ。

私は日々そのことに苦慮して生きているが、人間として人生を終えたいなら本能ではなく理性に従わなければならない。
「あの時は仕方がなかった」ではなく「あの時は間違っていた」としっかりと認めるだけの思考を身につけたいと思っている。