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28作品目 小説「サンショウウオの四九日」(朝比奈秋)

どうも自家焙煎珈琲パイデイアです。
「淹れながら思い出したエンタメ」28作品目ということなんだそうでございます。
今日、書き留めておくのは先日芥川賞を受賞した朝比奈秋さんの「サンショウウオの四九日」です。同時受賞された「バリ山行」は今読んでいるところです。

双子の杏と瞬は、体のちょうど真ん中を境にくっついた「結合双生児」と生まれ、生活している。一つに体に宿る二つの別々の意識、記憶、自己同一性はだんだん重なりあっていく。
二人は、胎児内胎児として生まれた父の双子の、つまり、父を体に宿していた伯父が亡くなり、田舎の岡山に帰る。
二人は交錯する意識の中で、過去の記憶を遡り、どこかで引っ掛かる伯父の四九日の納骨に参加する。

簡単なあらすじ、と言うよりも設定です。
書かれている事実を時系列順に並べつねるだけなら、いくらでもいいんですが、それでは、この作品を語っていることには、ならないと思っています。あんまりグダグダ言わないことです。

まず、かなり難しい命題を主題においていた作品でした。
「意識」と「身体」について、結局、どれだけの哲学者や宗教学者、精神科の専門家が頭をつけ合わせて、あれこれ考えても、いまだに本当の答えは見つかっていない、命題です。いや、本当の答えがあるかどうか、その存在だって私たちはまだわかっていない命題です。

そんな主題に挑んだ今作は医学的に現実的であるのか、SFとして読んでいいものか、デカルトの延長として哲学書として読むのか。この作品がもつ多角的な側面のうち、芥川賞を受賞した「純文学」と言う面積が一番狭いような気がします。

2度ほど読んで、噛み砕けたところはほんの一部でした。いくら読んでもみても、私にはこの作者が「意識」について、結局、どう考えているのか、読み取ることができなかったのです。身体に宿るものなのか、脳みそより発せられるただの電気の流れでしかないのか、この人はどうだと言いたいのか、どこにも書かれていないのです。
一番大切なところが書かれていない、もしくは、私が読み込めていない。

この作品は正直言って、半端な箇所がところどころあって、私の中では釈然としませんでした。
だってね、結局、作家はどう考えているのか、それが正解か間違いかの問題ではなく、どこにも書かれていない。なんだかスカされた感じです。

ただ、この作品の今回の受賞は、この作品の文学的評価がどうのこうのよりも、選考委員の作家さんたちが、文学に何を求めているのか、この価値観がわかったと言うこといに関しては、とても意味があったと思います。

作品の文学的価値ってなんなのか、つまり、巧みな表現力なのか、それとも作者が書こうとする主題なのか。
こんなこと、個人の信条であって、どちらが正しいとも、そんな答えがあるわけがありません。
ただ、今回のこの作品の受賞に関して、第一線で筆を執る作家さんたちの価値が測れて面白かったです。

まるっきりくっついて、一つの体にしか見れない身体に二つの意識が宿っている、と言う非常に難しい設定が、なんてことない家族の生活にストンと落とし込まれていて、その筆力はとんでもなくすごい。読んでいて、設定のせいでページを手を止めることもありません。これ本当にすごいことです。
その一方で、先に言ったように、結局、作者は何を結論として提示しようとしたのか、が見えてこないのです。

選評の中には、発想やそれを落とし込んだ筆力を評価する声と、主題が詰め切れていないことへの指摘、とその両方がありました。それぞれの選考委員が何を基準に置いているのか、ひいては、何を信条に作品を書いているのか、と言うことが垣間見れました。
普段、読む作家さんが大切にしているもの、それを知れたことはファン心理としての充足感が満たされます。

モネは睡蓮を何回も何回も書くことで、光の表現へ辿り着きました。
一作で、こんなに難しい主題を書き切ろうなんて、とんでもない挑戦です。
作者の方が、この主題をまたいつか、違う設定で書き切った作品が生まれるなら、少し楽しみです。

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