なぜ私は「理」を考えるのか①
なぜPCは机の上に乗らずに地面に落ちるのか
形而下の事象には物質的形態が存在する、のは疑いようのない事実である。だから私の体は物質的に存在しているし、目の前に机が物質的に存在するから、私はPCを置いてこの文章を書くことができている。しかし目の前に机が存在しなければPCは地面に落ちてしまう。なぜPCは地面に落ちるのか。それは机は5m先に物質的に存在しているため、目の前には存在しないからである。
なぜ目の前に机が存在しないのか。それは目の前に存在しない理由があるからで、5m先にある理由が存在するからである。つまり”それ”が”そこ”にある理由が形而下に必ず存在していることになる。
”それ”が”そこ”にある理由
ここで”それ”が”そこ”に理由を「理」と呼称する。この概念は形而下では不変的で普遍的な真理である。なぜなら”それ”が”そこ”にある理由は存在しても、”それ”が”そこ”にない理由が存在しないからである。もし”それ”が”そこ”にない理由が存在するのであれば、机は目の前にあったり5m先にあったり一定の位置に存在しないだろう。
「理」と「科学」
「理」には形而下限定だが”正しさ”が存在する。私たちは時々それを「科学」と呼ぶことがある。
机が”そこ”にある理由は、机の足と地面に摩擦が存在しているからだ、重力があって机は地面に固定に近い状態になっているからだ、と「科学」で説明がつくことは勿論ある。なぜなら我々は形而下の物質のことを議論しているのであって、物質的な解釈には「科学」が非常に有用だからである。
だが、私はこの「科学」にも「理」があるのではないかと考える。科学が物質を適宜する際、分子から原子、原子から陽子や中性子、そして最小単位であるクォークまで突き詰めていく。一般的な現代の科学では、クォーク以下の素粒子を定義できていない。そして「科学」で素粒子を定義するかぎり、この「理」からは逃れられない。
単純に言えば、「素粒子」はなぜ”そこ”にあるのか、である。
今回はここまで。適宜理論の穴などがあれば指摘いただければ幸いである。