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5.SNSの向こう側

 Twitterを使いはじめて、約2年が経った。そのはるか前から世界中の人々がTwitterを使っていたので、わたしの歴は浅いほうだろう。ちょっと使うのを避けていたのである。

 このエッセイは、自分が毎日何を思い考えているかを自分で知るため、そして友人・知人への近況報告も兼ねて書いている。
 日々の過ぎていってしまう小さなことをすくって、自分という棚にはなにが収まっているのか、棚おろしの意味をこめて綴りたい。

 Twitterには度々感動させられる。それは、本の感想を投稿したときに著者本人がコメントをくれたり、いいねをしてくれたり、また、好きなカフェのことを紹介したら、これまた店主さん本人がコメント等をしてくれたりするのだ。

 「こんなに簡単にご本人と文字で会話できちゃっていいの・・・」

と、毎回恐々と感動する。著者の方とは本を通して、お店の方とは店舗を通して、わたしとは住む世界が違うので、それでしかつながり様もなかったはずなのに、Twitterによってご本人とやりとりできるのだ。
 さらに言えば、アカウントをフォローしていればその方々の日常を垣間見ることもできてしまい、本や店舗から読み取ることのできない、人となりが分かる(気がする)。
 Twitterを介すまでは、彼らが実在するかも分からなかったのに、投稿から「彼らも喜んだり傷ついたり、普通の人間なんだな」と、住む世界は違うが、自分と同じ世界に存在していることを実感する。

 だからこそ、バズった投稿のコメント欄や、辛辣な引用ツイートを見るのは辛い。

 わたしが大学生の時、ちょっとした活動をmixiというSNSで友人と立ち上げた。今は当たり前だが、当時はネットで何かを呼びかけたり、大学生が何かを主導するのは珍しかったので、ありがたいことに新聞等に取り上げられた。

 しかし、投稿の仕方や運営の仕方が良くなかったので、今で言うところの“炎上”してしまったのだ。

 わたしも若かったし、当時ネット炎上への世間的な心得(?)もなかったので誰もフォロー出来ず、心ない書き込みは、すべてわたし自身への批判・人格否定なんだ…と、真正面から受け取ってしまい、SNSの向こう側の人々がものすごく怖くなってしまった。

 10数年前はネットの世界は基本匿名だったし、だからこそ発言は包み隠さない“本音”だとわたしは思っていた。だから、批判も本音なんだ、世間こわい、なんて思った。

 こんな経験からTwitterのような、世界中の誰にでも開かれているSNSを使うのを避けていたのだ。

 ここ数年、真偽は分からないが、SNSが原因で命を絶つ芸能人の方の報道を目にする。おこがましいが、気持ちが分かるような気がして、苦しくなってしまう。

 口語と文語では、同じ言葉でも受け取られ方が違うし、辛辣な文章は驚くほど傷つく。そりゃあもう再起不能になるくらいに。

 亡くなって年月が経ってからも時々、思い出してしまう。

 報道を見るたび、SNSの向こう側にいるのは、有名な本の著者でも、すごいお店の方でも、芸能人でも、その方々の一部は、“大学生の自分自身”なんだと思ってコメントや反応をしたいと、心に刻むのだ。

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