「嫌い」
最近、身の回りでちょっとした人間関係のトラブルがありました。
全部話すと長くなるので、端的に話します。
先日、私と友人のAとBで(他にも数人いた)食事にでかけたときのこと。
些細なことでAとBが口論になりました。
理由としては、Aは以前からBのことを苦手に感じていて、その日はAのBに対する嫌悪感のようなものが爆発してしまったことでした。
そして、その日の最後にAは
「Bはちょっとムリだ、やってけない。」
と言って、その場は解散となりました。
その日以降、AはBに対して常に冷たく接するようになってしまい、未だにBのいる場にはAは来ないという状態になってしまいました。
「嫌い」という感情は「理解」から最もかけ離れている
今回私はこのことを身にしみて感じました。
子どものときに、
野菜が嫌い
勉強が嫌い
というのはありがちですよね。
でも彼らは野菜の何が嫌なのか、勉強の何が嫌なのか、どうすれば好きになるのか、といったことをまったく考えず、ただ嫌いだから食べないし、やらない。
理解することを放棄して理解することに臆病になっています。
だから、
「なんかわかんないけど大人になったら食べれるようになった」
「いつからか勉強することが楽しくなってきた」
という突然変異のようなことが起きるんです。
でもこれらのメタモルフォーゼの原因は嫌いな理由を因数分解してみるとわかります。
匂い、食感、味
授業時間が長い、先生の話がつまらない、基礎がまだできていない
というように「嫌いの要素」が抽出できます。
で、さらに
匂い→好きな匂いの食べ物と一緒に食べる
食感→わからないくらい細かく刻んで食べる
味→調味料
授業時間が長い、先生の話がつまらない
→まずは興味のあることから学習してみる、分かりやすい先生のいる塾へ通う
基礎がまだできていない
→家庭や塾で基礎から学び直す
というように克服のための方法論がどこかにあったり、そもそも克服する必要がなかったり、ただ嫌いだと断じていただけであって、
大人になるにつれて、
自然とその方法を選択して実行していたり、
そもそも嫌いな理由が無かったことに無意識にきづいたり
しているんです。
であるなら、世にはびこる嫌いって実は割とどうにかできることって多いと思いませんか?
それなのに、Aのように「嫌い」を盾にして「理解」を遠ざけていることがほとんどですよね。
世の中には絶対の真理なんて無くて、
いろんな考え方やバックグラウンドがある人たちの間で理解し合うことが何に於いても大事
「そんなことはわかってる。」
「理解し合うって何?綺麗事を言うな。」
そんなあなたへ。
まずは、嫌いを無くしてみては?
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