父親。
「お父さん
大好きなお父さん
とっても会いたいです
もう車イスから立ち上がり
戻ってきてください」
おばさまの声が震えた
実父の話だった
暴力的でワガママで
学が無いのに見栄はりで
大盤振る舞い
九州男児で
戦後まもなく上京し
一銭も無いので
畑から野菜を盗んで食べた
戦死の父親代わりに
母親の代わりに
必死に働いた
なんでもした
学校も行ってない
姉は戦時中
餓死して亡くなった
母親の泣き叫ぶ声が
いつまでも耳朶に残る
母親はお嬢様育ちで
お勝手すらできない
父親の戦死の知らせのあと
すぐに工場で働くが
右手も左手も指を何本も
一度に落としてしまた
弟と2人船で大阪まできた
働いた盗んだ
生きるために
何でもやった
幼い妹と母親を
必ず大阪まで呼び
良い暮らしをさせたかった
昭和世代に
結婚し子供をもうけ
家を買う
仕事も
大手企業の幹部にまで
成りあがり
暮らしが安定し始めた
弟も妻を迎え
家も建てた
妹と母親を呼び
大阪の街で
生涯暮らそうと
汗をかいて
働いた
ある日
弟の妻から電話
朝起きると
弟は亡くなっていた
2人の男の子を遺し
電話口で泣く弟の妻の声が
昔聞いた
姉の死とかぶる
27歳だった
弟の家族も面倒見ると
心に決め
さらに仕事に励み
収入は年収二千万を超えた
気性も荒く
ヤクザにも間違えられた
お金を借りに来る人も多く
返済のない人を
恨みはしなかった
お父さんは
仕事はよくできた
仕事の信頼はあつく
指導もよくでき
部下もたくさんできた
大工の棟梁のような
親分肌で
部下には何でもした
個人的な祝いをしたり
金銭面の工面をしたり
仕事を教えたり
住むところを共に探し
食べるものが無ければ
いつでも自宅へ呼び
食事に招いた
学歴のない人にも
学校へ行かせたり
語学を学ばせたりして
面倒をみた
酒は嗜む程度
博打はしない
ゴルフもしない
テレビもみない
趣味は仕事と山菜取り
タバコはヘビースモーカー
車道楽がすぎるのが
たまにきず
3年経たずに新車
しかも高級車ばかり
浮気をして妻にバレても
しらばっくれ
浮気調査員に手を挙げて
脅す始末
暴言と暴力で
できているような
お父さん
自宅はいつも
新築一軒家
大阪市内を転々と
10回も引っ越すたびに
大きな家に建て替える
もちろん
我が子達にも
躾という暴力暴言
息子の足に
シガーライターの跡が残る
「これはなに?」
そういった質問に応え
左太ももに強く押し付けた
娘を殴る時も
容赦はない
門限を破った
娘を
バカヤローとビンタすると
同時にそのまま
ハンドボールみたいに
床へと叩きつける
もちろん暴言も止まらない
町内の方々が
「ヤクザ」のお家だと
ウワサした
時が過ぎ
亡き弟の妻からまた電話
嫌な予感は的中
今度は息子が亡くなった
また27歳だ
車を飛ばして
会いに行った
泣いて泣いて
何度も泣いた
お父さんは
義理人情にあつく
曲がったことがキライだ
そして
困ってる人をみたら
見捨てられない
亡き弟の残る息子の仕事を
応援した
そんな時に
実妹の不妊の理由がわかったと
連絡が入る
結婚した夫さんに
精子が無い
妹は子供が欲しいからと
離婚しようとした
それをお父さんは
「ダメだ」の
一点張りで
決めつけて止めた
子供のいない
夫婦は世界中にいる
子供の出来ないひとも
世界中にいる
誰のせいでもない
離婚して次の人も
できないかもしれない
世界中にいる
親の無い子供達を
我が子だと
考えて生きることだ
お父さんは
妹の生涯を勝手に決めた
妹は夫さんが
宝くじに当たり
誰もが羨む
裕福な家庭になった
お父さんは
定年後も働いた
延長で働いた
会社は反映し
支店も海外にまでできた
実質立ち上げから
社長とやってきた
社長を「おやじ」と呼び
役職も分不相応に
いただいてきた
いつも威張ってた
退職後趣味も無い
運動神経抜群だが
団体で運動するのは
嫌いだった
人に習うことも嫌がった
リーダーは自分じゃないと
何もできない
ジッとしてるのは
もっとキライ
だらしないのも
全くダメ
社交的だが
群れるのを好まなかった
やることが無くなった
庭の手入れ
愛犬の散歩
妻とはいつも
仲良くケンカ
旅行などは嫌いで
突然遠くへ無計画に
旅することは好きだった
親戚の挨拶まわりで
名古屋へきた
大阪へ戻る時
新幹線ホームで妻に
飲み物を買ってきてという
その間に全ての荷物と
電車のチケット2人分を持ち
さっさと電車に乗ってしまう
お父さんは
お母さんを
ホームへ置き去りに
するつもりだったのか
父亡き今も母は
恨み言を云う
「ホームで捨てられたのよ」
大阪からボクの保護者らの元へ
お嫁に来たおばさまが
泣きながらただただ
実父のことを話す
起承転結も何もない
だけどなぜか
フイルム映画のように
目の前に景色が拡がり
おばさまの
「お父さん」が浮かぶ
父親の70歳からの
介護は壮絶だった
80歳まで名古屋と大阪を
毎日通って介護した
父親は息子と同居してた
しかし介護はしない
なので
おばさまが通ってた
お仕事も辞めパートに切り替え
空き時間で仕事した
命尽きる当日も
おばさまは介護に通い
共に過ごした
おばさまはそれでも
「もっと何かしてあげたかった」と
声を詰まらせる
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