自分で 自分の思い込みを外してあげる
”思い込み”
人間は思考できる
だからこそ、持ってしまう
ただ、それは自分の中だけの
ちっちゃな、ちっちゃーな
常識の範囲で考えられたものだ
”常識”をネットで調べてみた
『客観的に見て当たり前のこと』
では、その客観的に見ているのは誰だろう
常識って、本当に存在しているのかな
何か拠り所、枠組みがあることに安心したいから
存在していると思いたいだけかも
社会が持つ風潮は
時代の流れと共に変化をしていくし
人が人生の歩みを進めていけば
その人なりの価値観が出来上がって
心にも変化が生まれていく
物の見方が変わり
見える世界が変わっていく
つまり
”常識”とは、
自分の経験や、思考する中で培われ、
そして、周囲の環境から感じ取り、
蓄積されていくものだと思う
例えば、
・どうせ自分は三日坊主で続かないだろうなあ
・ガサツだから慎重にやれるかなあ
・お母さんにワガママって言われていたから私はワガママなんだろう
・子供のクラブのお手伝いは父より母がするもの
本当に自分は三日坊主?ガサツ?ワガママ?
それが正しい?
夫婦二人の間に授かった子供であるのに
役目を父母と分ける必要ある?本当?
納得できる理由がそこにある?
少しの疑問を感じても
それを受け入れてしまっていたり
いつの間にか
それが然も正しいかのように
思い込んでいるのかも
思い込んでいることにすら
気づいていないことも多いのかも
あー、勿体無いー
自分の可能性を狭めているのは
まぎれもない自分自身だ
下手をすると人にも強要してしまっているかも
一度、0にする
完全にはできないかも知れないけど
それに近づける
自分でたくさんたくさん作ってきた常識の壁は
高く頑丈に思える
でも
自分の心の中から変化させることで
自分が眺めている景色が一変する
常識の壁は低く、もろくなる
トリャッ!!
壁をぶっ壊すと見えてくる
勇気がいるかも
信じてきたものを壊すのだから
心に寄り添って
ゆっくりそっとでも良いから
自分の常識の壁に
風穴くらいは開けてみる
それができれば
本当に自分がしたいことの芽が
そこに芽吹き
存在してくれていることに
気が付ける
みんなにどう思われるのかを
心配する気持ちがまだあったとしても
叶えてあげたくなる
自分が自分を信じられているなら大丈夫
自分を疎かにして過ごすのも
自分を見つめて幸せをより感じて過ごすのも
自分の自由だ
自分の人生の責任は
どこまで行っても
自分にあるのだから