見出し画像

帰りの路地

私の住まいは、大通りから少し離れた静かな場所にある。その最後の一区間の細い路地を毎晩歩く際、無意識のうちに、その日の頭の出来を測っている気がする。

研究をしていると、これまで知らなかった分野や概念を勉強しないといけない場面にぶつかる。実験の解釈に行き詰まったり、新しい研究計画を立てる際など、その都度関連する論文を読み込み、考えをGoogleドキュメントにまとめる。

初期の段階では、いくつかキーワードを検索して論文を探しているうちに、自分がやろうとしている実験と似た報告を見つけてしまったり、それで早合点して研究の前途に絶望したりと、いろいろと感情の起伏を経験する。この間は、何かをノートにまとめようとする気すら起こらない。

大体の研究アイデアはこの時に潰えてしまうが、それでもなぜか考えてしまうテーマというものが時々現れる。休日の昼や平日の晩に論文を調べたり、寝る前にうっかり調べものをはじめてしまったりするようになる。

家に着く最後の1分、路地を通るときにも、そのことを考えているようだと、アイデアが熟す準備が進んでいる証拠である。ただ依然として、このまま調べ続けて何か得するだろうかという疑念は常にある。日々、考えが頭を重くする。

そうしているうちに、だいたいの場合は幸運によって、これはと思う文献に出くわす会う。特に概要をうまくまとめたイントロダクションのある論文が役立つ。それを頼りに文献をたどっていくと、たちまち10や20ではくだらない数の論文を引き当てる。こうなれば、あとは時間の問題である。まず徹底的に関連しそうな論文をリストアップして、どこか休日をみつけて、徹底的にこれらの論文に没頭するのみだ。

膨大な文献を一つずつ読む過程で、最初は内容が頭に入りにくい。ときどき、なるほど、と思う個所があり、そういうものはノートに書き記していく気力が起きる。そのうちに調子が乗ってくる。あるところで、自分の既存の知識との接点がみつかり、それをきっかけに、ぐんと理解が深まる。しかし、理解のきっかけが見つかると、一気に全体像が見えてくる。この瞬間、一本の論文を深く読めば、これほど多くを読む必要はなかったと感じることもある。

こうしてみると、何もそんなに悩んだり時間を使ったりせずとも、効率的なアルゴリズムやAIを使えば、初めの一歩から重要な論文にたどり着けるのではないかと思う。しかし経験の上では、これはだめだと思ったり、もうこの実験はやられていると思ったりという種々の思いというのが、自分の興味や本当の問題意識を炙り出すためのある種のフィルタとして機能しているように思う。はじめから正解を提示されても、あまりピンとは来ないのではないかとも思う。初めからの正解提示では、同じ感銘を受けないかもしれない。

そんな思いを抱えつつ、今日も私は路地を通る。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?