見出し画像

移住3ヶ月を振り返る -ふたつの地震と日台の狭間で-

台湾に移住して3ヶ月が経ちました。3ヶ月は習慣化の節目とよく言われます。最近はなんてことのない路地を写真に納めることが趣味になりつつあります。移住直後は何もかもが新鮮でたくさん撮っていた写真も、気づけばあまり取らなくなりました。「慣れ」はとても大切です。1日のうちに判断や戸惑い、あるいは勇気を必要とする場面が減るほど、次のステップへ進むときの勇気に残しておくことができます。いちいちコンビニのレジで「勇気」を消耗していては、例えば顧客の前で中国語でプレゼンする「勇気」は湧いてきません。でも、そうだとしてもあらゆることに慣れて、「日常」や「あたりまえ」という言葉の中に、些細なきらきら輝いて見えたものを全部隠してしまうことにも、抵抗したい自分もいる。

さて、昨日4月3日に台湾で震度6強の大きな地震がありました。被害に遭われた方に心より哀悼の意を表します。
台北でも揺れは大きくて、思わず311東日本大震災や2018年大阪北部地震(その日ちょうど大阪にいた)を思い出しました。そもそもの揺れも大きかったけど、なにより外国で体験する地震は本当に怖かった。
思い返すと、移住直後は日本の能登半島地震の話でもちきりでした。
災害の話と私の個人的な移住3ヶ月のあれこれを並列に語るのも何か違う気がするのですが、今の気持ちを書くには避けられない話題なので、最初に私の個人的な話を書いて、最後にまとめます。


1ヶ月目:空白に立ち尽くした初月

最初の1ヶ月はまさに「からっぽ」でした。台湾に移住したきっかけは台湾の会社に内定をもらったからで、台湾が大好きで憧れて移住を夢みる熱量もなければ、家族や親戚も恋人がいるでもない。いくつかの選択肢の中のひとつでしかなかった。確かに旅行では何度も来ていたけれど、旅行と生活は全く違うし、移住を機に未経験業界へ転職したこともあり、仕事も生活もわからないことしかない。海外移住という10年以上追い続けてきた夢が叶って”しまって”、次にやりたいことも、なりたい姿も、目指す方向すら、何も描けない。目の前で起きていることを理解・評価する基準も持ち合わせていない。だから自分の現在地すらわからず、とにかく起こったことをそのまま飲み込んでなんとか消化するしかなかった(そして、度々消化不良を起こす)
とても抽象的だけど、そうとしか表現できない、ただひたすら「からっぽ」のなかで立ち尽くした、とにかくそんな時期でした。思うに人間関係も社会との繋がりも全く形成されていないので、当時の自分は自分の心象風景の中でしか描写することしかできない気がする。(あれ、今でもわりとそうでは・・・)

当時の心境は移住直後のエントリーにも少し書いています。

そして当時いろんな方からいただいた言葉が「慣れたらどうとでもなるよ」「時間が解決してくれるから大丈夫だよ」という励まし。気持ちはとても嬉しかったし、自分でも頭では理解していたけれど、時間しか解決してくれないなら、できないことばかりで困っている「今」の私には何もできることはないのかと、ある種の絶望的な宣告にも聞こえた。そうはいっても結局目の前のことを一生懸命頑張ることしかできないのですが。でもやっぱりあまりに救いがない

ここまで書くとかなり暗澹たる初月だった感じですが、実際のところは「必死」の2文字に尽きると思っています。1ヶ月目が過ぎた日に、一瞬だったような、桃園空港の入国審査が遥か遠い日だったような、すごく不思議な気持ちだったことを覚えています。それくらい、とにかく目の前の一瞬一瞬に対処するので必死だった。家探し、居留証申請、入社手続き、慣れない仕事。人間関係。コンビニのレジすら何言っているのか分からない。適当なお店で注文の仕方が分からない。ランチどこにいったらよいのかわからない。仕事でも、日本だったらなんてことないpc設定のエラーの対処を聞きにいくのに半日悩む。私の職場は台湾人95%なので、ネイティブたちの雑談に入っていけない。日本では気にも留めないことに「勇気」を振り絞る。こんなの私じゃない。そんなこんなの「思い通りの社会生活を営めないのがデフォ」な圧倒的デバフ環境に四苦八苦した初月でした。

2ヶ月目:世界、広がれ

1ヶ月目が終わると、生活のあれこれや仕事の最低限の人間関係や環境のセットアップも落ち着き、生活の基本的な土台や日々のルーティンができてきました。少し余裕ができて、週末に外に出かける元気が出てくるようになり、ここでやっと生活を守るフェーズから、外を開拓しにいくフェーズが始まっていきます

この時期で忘れられないのが、初めての会議通訳での大失敗。東京本社から偉い人が来てメンバーに本社の方針をプレゼンするので通訳をしてほしいと上司から依頼され引き受けたのですが、結果見事に玉砕。できなかった。途中で別の同僚に変わってもらうという大恥を晒しました。でも内部会議だったし、優秀な同僚のおかげで会議も滞りなく終了し、ダメージを負ったのは私のプライドだけだったのが救い・・・。めちゃくちゃ落ち込みましたし、帰り道普通に泣きました😭思い出してもまだ心臓がちょっとキュッとする・・・

でもやっぱり、やったことないことに挑戦して失敗するのは当たり前だし、恥を晒したのも同僚に迷惑かけたのもつらかったけど、まずは挑戦した自分を褒めてあげたいかな。すっ転びながらでも、進むからこそ見える景色がある。

もうひとつ思い出深かったのが、同じチームのお手伝いでとある日台交流イベントに参加したこと。とてもホットなテーマに関する内容かつ錚々たる顔ぶれの参加者で、会場の熱量も高く、日台ビジネスの最前線の熱気とうねりを肌で感じて、とても興奮しました。こういうイベントはレアケースなので当然物理的な熱を感じる機会は多くないですが、私がこれから仕事をする場所はこういう、いろんな人や物や思い(そして思惑?)が入り乱れるとても熱くて面白い場所なんだと実感する良い機会になりました。今の仕事はクライアントワークなので、これまで事業会社でビジネスの主体者として意思決定をするポジションとしてキャリアを積んできた私は、今の第三者・傍観者的ポジションに歯痒さを感じてしまいます。でも、フットワーク軽くいろんな業界を横断できるのはクライアントワークだからこそです。だったら、せっかく日台ビジネスの狭間という熱い場所にいるのだから、フッ軽にいろんな場面を見て、次に進みたい場所を探すのもいいのかもしれない。それに、これだけ自由にこの狭間を泳げるのは、この仕事以外にないはず。まだまだ下っぱだけれどしばらくこの仕事頑張って、できることとか、少なくとも日台の間でこの分野なら仕事できます!役に立てます!という分野を作っていきたいなと気持ちを新たにしました。

そしてこの時期からマッチングアプリを始めたり、交流会的な場所に参加してみたり、いろんな人に会うようにもなりました。アプリは人間観察としても面白くてとんでもパーソンに出くわしたりしてネタが多いのですが、いずれまとめて書きたいなと思っています。

3ヶ月目:やっと「始まってきた」感。

3月に入ると年度末のばたばたと同時に、来年度への新しい仕事が始まりました。これまでの仕事は日本語中心のものが多かったのですが(なにせ95%台湾人の職場なので、私が真っ先に貢献できるスキルは日本語しかないのです)、この頃から台湾人と中国語でのプロジェクトが始まります。この分野は私の大学の専攻とも関連していて、とても楽しくやらせてもらっています。
最初は(今も)天性のびびりを遺憾なく発揮して、死ぬほど緊張しまくっていたのを、マネージャーに優しく一歩一歩フォローしてもらい、最近やっと緊張せず話せるようになってきました。このマネージャー大好き。でもいつもおどおど話してしまって申し訳ない。なぜか職場だと中国語力が落ちる

そして同時にマッチングアプリにはかなり助けてもらいました。図らずも、語学のアウトプットの場にとても良かった。最初はチャットでマイペースに、会った時も中国語で意外と聞き取れるなーとか、意外と話せるなーとか。多分その場数踏んだ経験が自信になって、仕事でも少しずつ発言できるようになっている気がする。それでもぜんぜんおどおどしてるけど。

なぜ職場だと中国語が話せなくなるのか、あまりちゃんとわかっていないけれど、きっと私にとって職場は「プロフェッショナルでありたい」環境で、それゆえ言葉(=コミュニケーション)という不完全だと信頼を落としかねない要素への心理的な緊張なんだろうなという気はしています。あまり変な失敗すると信用してもらえない、頼ってもらえない、みたいな。単純な文法ミスが怖くて話せないとかとはちょっと違くて。そんなことより、不完全でも自信を持って堂々と意見を発することの方が大事だってわかっているんだけど、職場だとどうしてもそうなれなくて、普段話せる内容も詰まったり、萎縮してしまう。考えすぎてしまう。ほんとうに、なぜなのでしょうか。
そんな中、これまで家と職場の往復だった中に、アプリの人との会話というあたらしいステージができたことで、アプリで自信つける→職場で話せるようになる、といういいスパイラルが生まれている気がします。一度できたことの、二度目は緊張しない。なのでアプリは感謝。

こうして振り返ると、生活の土台づくりに奔走した1ヶ月目、少しずつ外の世界に目を向け出して現在地を把握し出した2ヶ月目、台湾人チームとの仕事など新しい場が生まれつつある3ヶ月目と、やっと移住してやりたかった生活が「始まってきた」なという気がします。そう入ってもまだ高校生に憧れる小学1年生くらい、理想と現実にはギャップがあるのですが。なにはともあれ、少しずつ移住前に望んでいた方向に進みつつある実感はあります。きっとうまく行かないことや失敗に落ち込んだり、うまく伝わらなくて悔しさに唇噛むことは日常茶飯事でも、少しずつちゃんと進んでいるから大丈夫だよ、と自分に言ってあげたい

まとめ:3ヶ月を振り返って-ふたつの地震と日台の狭間で-

内定もらえたからという完全に受動的な理由だったとはいえ、移住したのが台湾で良かったなと感じています。これまではっきり感じたことはなかったけれど、そう思わせてくれたのが奇しくも今回の地震でした。1月の能登半島地震で真っ先に救助隊の派遣体制を整え、多額の義援金を送ってくれた台湾の人たちと、今回「恩返し」と声をあげてくれている日本の人たち。毎日たくさん悲しいニュースはあって、政治的な摩擦も絶えず、心無い言葉や主義主張を目にしてしまうこともある。でも、私が身を置く場所がこの温かい日本と台湾の間で良かった。そして、今回の地震で心配して連絡ををくれた友人知人や、心を砕き支援の準備をしている日本の顔も知らない多くの人たちを目にして、同じ日本人であることを誇りに感じている自分がいる。自分で言うのもあれだけれど、日本では「あまり日本人ぽくない」と言われてきた。けど一歩海外に出ると、日々まぎれもない生粋の日本人であることを突きつけられる。悪い意味で感じることも多々、いやむしろその方が多い。うまく言葉にできないけれど、そんな環境で「日本人で良かった」と、そう思わせてくれる場所で良かった。日本にいたら、この気持ちになることはなかったんじゃないかな。

仕事でも、やっぱり日台の関係は緊密で、日々様々な往来が起こり交流が生まれている。そういう場所で仕事ができて良かった。単なる知的好奇心という意味も多分にあるし、そうは言っても結局は傍観者・第三者でしかない今の仕事には不満もないわけではないけれど、異なる人々が交わる場所には必ずドラマがあるから。やっぱりそういう国境を超えたダイナミズムを観察できる場所に身を置いて今後も仕事ができる、やること・できること・関わる人やプロジェクトはこの先増えていく一方でしかないというのはとても嬉しいことだと思う。何より職場の人たちは優しい。日本人への解像度が高いから、私の中の「日本人性」を理解して尊重してくれている気がする。

「日台の架け橋になりたい」とか、そんな大それたことは1ミリも思っていないし、結局私は私の毎日を生きることでいっぱいいっぱいなのだけれど、「からっぽ」で始まったDay1から、今日Day106を超えて、いつまで続くかわからないDayNまで、いろんなことが起これば良いなと思っている。

先日妹との何気ないLINEでこんなことを聞かれた。「10年前の自分が今の自分に会ったらどう思うと思う?」私は「めちゃくちゃ憧れちゃうよ」って答えた。本気で。10年後の私も、この場所でいっしょうけんめいいきた先で、今の私がはちゃめちゃに憧れちゃう大人になっていてほしいな。

いいなと思ったら応援しよう!