アンドレアス・フォンダーラッハ『人種の脱構築: 生物学に反する社会科学』⑤
アシュレー・モンタギュー
人種という概念をタブー化するのに先駆者的な役割を果たしたのが、ボアズの弟子であるアシュリー・モンタギューである。モンタギューは一九〇五年にイズラエル・エーレンベルクとしてロンドンの労働者居住地区イースト・エンドで生まれ、ロンドンのユニバーシティ・カレッジで心理学と人類学を学んだ。そこで彼は、古いイギリス貴族の響きをもったモンタギューという名を名乗りはじめ——モンタギューはノルマン系を起源とする——さらに上層貴族のアクセントを身につけた。それを彼は一生のあいだ維持していくことになる。モンタギューには心の奥に染みついたマイノリティであることへのコンプレックスと他人に対する不信感があった。「ユダヤ人として育つと、他のユダヤ人でないものは皆、反ユダヤ主義者であることがわかる。〔…〕。私は、これはよい前提仮説だと思っている」。
一九二六年にモンタギューはアメリカにいき、そこで数年後には、彼はニューヨークのコロンビア大学でフランツ・ボアズの博士候補生となった。アシュレー・モンタギューに対するボアズの影響力はあまりに強力なもので、モンタギュー自身が〈新たに生まれ変わったアシュレー・モンタギュー〉について語ったほどである。ボアズと同じように、モンタギューは数多くの共産主義的な組織に帰属していた。第二次世界大戦の最中の一九四二年に、モンタギューの著作『人類にとって最も危険な神話: 人種という過ち』が出版されたが、そこで彼はボアズの人種概念について批判的な態度を取った。彼によれば、ボアズの人種概念はなおも部分的に恣意的で、傾向として人種差別的であり、「エスニック・グループ」の概念によって取り換えなければならないのである。
このモンタギューの著作は、人種差別に対するユネスコの決議の文面策定に際して、国際専門家委員会の議長に選ばれることの理由ともなった。その委員会には、モンタギューのほかに、フランス人のクロード・レヴィ=ストロース、イギリス人のモリス・ギンスバーグなど八人の文化人類学者と社会科学者が含まれていたが、自然人類学者は一人もいなかった。
一九五〇年七月一八日に発表された宣言にあっては——ここはまったく正しいことであるが——こう述べられている。「エスニックな原理としての平等は、決してすべての人間が事実的に同一な特徴を備えているという主張には決して依拠していない」。こうして確かに、この宣言は人種の存在に異論を唱えてはいないが、しかしまた、こう主張するのである。「人種というものは生物学的現象であるというよりは、むしろ社会的神話である」。だからこそ、またこの宣言ははっきりとこう述べるのだ。「人種の概念は解体されて、〈エスニック・グループ〉という概念によって置き換えられなければならない」。加えて、それはつまりこういうことでもある。「知性面であろうと感情面であろうと、人間集団が生得的な性質によって区別されるという証拠などまったく存在しない。科学的な知見が示唆しているのは、精神的能力のもつ範囲や幅は、あらゆるエスニック集団においてほとんど同じである、ということである…」。
第一の主張——精神的な面における人種間の相違は存在しないというもの——は、厳密にいえば、当時の段階においては、なおも正しいものであったといってもよいかもしれない。それに反対するための証拠というのも、なおも十分には存在しなかったのだから。しかしながら、科学的な知見は精神的な面におけるそのような相違の存在を否定している、と語るのは、当時においてすら、間違いであった。知性やその他の心理的なメルクマールについての高い遺伝可能性については、双子研究からすでに知られていたし、当時においても理論上の蓋然性や一般的な経験からいっても、人種間における心理学上の相違が存在することは、肯定されうるものであった。
しかも、この宣言であっては、世界規模の博愛の倫理こそが生物学的な研究によって裏付けられていると語られてすらいるのだ。人間は協働のための自然的な傾向をもって生まれてきて、そしてこの衝動が満足させられないときには、人間も民族も病気になる、というわけである。これは、〈自民族中心主義〉が人間の行動における生物学的な起源をもつ、という考え方に反対しようとするものである。だが事実としては当時からすでに、科学的な知見によれば、まずは普遍的平等ではなく、生物学的な基礎に根ざした家族的ないし部族的な道徳の存在が認められる、ということは識者にとっては明らかな事実であったのだ。
ユネスコの決議は、それが公表されるや否やすぐに、数多くの自然人類学者の抵抗を引き起こした。そのためにユネスコは新たな委員会を誕生させたが、今回は議長となったのは、人種概念への反対者ではなかったフランスの人類学者アンリ・ヴァロワ(一八八九-一九八一)であった。新たな委員会は、改訂された宣言を起草して、一九五二年六月に発表したが、そこでは人種概念が非難されることなく、また人種間の精神的な面における相違をめぐる問いは巧妙に避けられて表現されることになった。【この章終わり、次章「市民宗教としての定着化」へ続く】
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