ヴォルフガンク・ゲデオン『コロナ、衝突、内戦: グローバルな独裁への道?』⑥

5Gネット
(S. 26)たとえばレントゲンの放射線のように、強力な放射線が生物学的システムに影響を与えることは、自明のことである。また生物学的システムは微細な刺激にすらも感知しており、それが感知されないにしても、その刺激を遮断することがまた、ある有機体にとっては非常にエネルギーを労することであり、また疲労の蓄積するプロセスもである。いつこの疲労が機能上の障害に転ずるかは、時間の問題であるに過ぎないのだ。ある人が何か月か何年も、そのような光線の刺激に曝されるならば——遅かれ早かれ——彼には機能的障害が生じて、最終的にそれはいつか器官や組織における障害となる。この単純なプロセスを理解するために医者である必要などない。それどころか、そのような微細な刺激の影響を認めようとしなかったり、そのような小さな刺激が時とともに大きな有害な刺激として蓄積していくことを理解しない医者も数多くいるのだ。
 水滴が落ちている蛇口の下に座ってみてほしい、そうすると一滴ずつ水が頭に落ちてくる。最初のうちは、あなたはそれをほとんど感知しないであろうが、時間がたつにつれてそれ不愉快となっていて、そしていつか、一つ一つの水滴によって生まれる苦痛にもう耐えられなくなって叫び声をあげることだろう。
 つまりは、多くのイタリア北部の都市のように、ある地域に高度の大気汚染やナノ分子による汚染が存在していたり、あるいは武漢におけるように、完成された5Gネットがあったとするならば、それは、コロナウイルスにとっては、それが健康にとって害となるような潜在能力を発揮するのに、理想的な温床となりうるともいえる。医学的にいっても、大きな影響力をもっている病原の「補完的ファクター」が話題にされることがある。

Corona-19はウイルスによる病気なのか?
 (S. 27)インターネット上に流布しているある理論によれば、Covid-19は感染症ではなく、むしろ5Gの電磁波によって生じる微生物学的な有害性の帰結でもあるそうである。その理論の指摘によれば、Covid-19は武漢で初めて登場したのだが、この武漢こそが、5Gのネットワークがはじめて完全に設置された人口数百万人の都市らしいのである。さらにはその理論は、5G電磁波とCovid-19のあいだの連関を証明したアメリカとロシアの研究を引きあいに出すのだが、ただし両者の相関関係は決して証明されてはいない。
 5Gによって肌の表面の細胞に何らかの「アンテナのような」組織体が生まれて、それがさらなるコロナの総体的症状を引き起こしているのかもしれない。私はこの理論はほとんど推量の域の出ないとは思っている。だが、ウイルス患者の処置をした診療上の経験を持つ人々はみな、5Gの電磁波やその他の事柄(ナノ分子汚染)などが、他のウイルス性疾患においてと同様に、コロナにおいても補完的ファクターとして作用する可能性があることについては、肯定的な意見をもっている。ただ根本的には、いま問題となっているのは、有害電波(5G)でもなければ、有害化学物質(ナノ粒子)などではなく、ウイルス感染によって生じる出来事である。

それ以前のワクチンが補完的ファクターなのか?
 コロナをめぐる医学においえは、いまもまだ多くの未解決の問いが存在している。
・インフルエンザのワクチンを接種した患者は、SARS2コロナに感染していなくても、PCR検査で陽性になりうるのか。
・(S. 28)コロナの症状によって生まれる重症者の数は、それ以前にどれほど多くの人がインフルエンザのワクチンを接種していたかによって左右されるのか。インフルエンザのワクチン接種者が多ければ多いほど、より病状は深刻になるのだろうか。リトアニアや、インフルエンザのワクチン接種率が低い他の国々においては、(スウェーデンやアメリカのように)その接種率が低い国々よりも症状が重いものとならないのだろうか(ミシガン大学の研究によれば)。
 ベルガモのようなコロナウイルスがとりわけ猛威をふるったところにおいては、そこで以前に実施された大規模な髄膜炎菌に対する大規模なワクチンが——そこでは約三四〇〇〇のワクチン接種が実施された——コロナの感染爆発に影響しているのだろうか。もしそうだとしたら、髄膜炎菌やその他のウイルスに対する予防接種は、コロナの症状の重症化を促進するものなのだろうか。あるいは、接種行為が不幸にも最初のコロナの疾患と発生と不幸にも一致してしまった、ワクチンの時点というのがあったというだけなのだろうか。

ひょっとしたらウイルスなどというものは存在しないのか?
 少なくない数の反ワクチン論者がそのように考えている。彼らによれば、私たちが「ウイルス」と名づけているものは、さまざまな生物学的反応における分解の所産として生じる細胞の粘質に過ぎないというのである。実際にウイルスというラテン語が、まずもって意味しているところは「粘質」であり、それ以上の意味はない。だからこそ根本的にいえば、ウイルスがそもそも病気の発生における感染の誘発因として、特別な役割を担っているのか、あるいはそもそも何らかの役割を果たしうるのか、ということについては、確かに議論の余地はあるのである。
 このような考え方は、多分において人智学的な医学者のルドルフ・シュタイナーの周辺に由来するものである。(S. 29)別の事例においても、それによって病理現象の研究において興味深い新たな観点が提供されている。規則とされているものと規則の例外とされているもの、その考え方は、事態を転倒することによって、異なった結論に至っているのである。
 公的なウイルス学には、容易には自覚されない根源的な欠陥がある。よく知られているのは、細菌と違ってウイルスには物質代謝が存在しないにも関わらず、ウイルスはまるで小さな細菌であるかのように扱われていることである。だがそれだけでは、多くのウイルス学的反応が説明できない部分がある。とりわけコッホにおける感染の尺度を、そのまま一対一対応で、ウイルスの場合の作用の仕方に当てはめることはできないのである。ウイルスの感染作用は、細菌におけるよりもはるかに高い水準において、補完的ファクターや同時に作用する細菌によって影響されるのである。この事実はHIV-AIDSウイルスをめぐる議論においても役を演じたが、またコロナにおいても同じ役割を果たしている。
 私も医者として、科学の範疇において、この問題を集中的に取り扱ってきた。とりわけ重要なのは、あまり研究されることない細菌とウイルスの関係である。ウイルスは細菌をどのように変移させ、また細菌はウイルスをどのように変移させるのか。この題材については、ベルリンの動物学の教授であるギュンター・エンデルラインが、私の見方によればもっとも詳しく説明を与えてくれている。
 もし興味のある医者の方々がいれば、彼が二〇世紀の初頭にシャリテ(ベルリン・フンボルト大学附属病院)において展開した、微生物の生活周期や多形性についての理論に取りくんでみるとよいだろう。本書はむしろ政治的側面を取り扱うものなので、これ以上はこの医学的問題に立ち入ることはしない。
 ただ確実なことは、ウイルスがまったく役割を果たしていないか、あるいは少なくとも重要な役を担っていない、そういう「ウイルス性」と呼ばれる事例があるということである。(S. 30)しかしながら、だからといっていかなるウイルスも存在しないと主張したり、疾患を引き起こすウイルスなどいないと存在することは愚かなことであり、公式のウイルス学に対する理性的な批判を妨げるものとなる。

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