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「日常とは、決して平凡という意味ではない」

ほんとうだったら、今頃わたしはパリにいて、恋人と初夏を過ごしているはずだった。

このゴールデンウィークを、そんなふうに一体どれほどの人が「ほんとうだったら今頃」といった想いを胸にしまってお家で過ごしているのだろう。

通勤しなくても良い世の中で、わざわざ都心の会社に近い、ひと月9万円の小さな1Kアパートに住み、(お気に入りだけど)スカイツリーを眺めながら、ひとりでひっそり暮らしている。(文章にするとなんだかとても寂しい)。どうせ家から出られないのなら、わざわざこんな都市部に暮らさずとも、お金をかけずにもっと自然のある田舎の、風通しがいい家に犬と暮らしたいなんて妄想が膨らむ。


今日はほんとうだったら、恋人と付き合って2年目の記念日だった。「ほんとうだったら」という言葉が冒頭についているのは、先月にお別れをしたからだ。(前に書いたことがあるので彼の詳細は省略。)

ベトナムと日本、フランスと日本と、常にほぼ遠距離をしていて、何度も別れたり戻ったりを繰り返していたのだけど、今回はほんとうに終わった感じがしている。別れた理由を簡単に言うと、お互いが自分のことにいっぱいいっぱいで、相手に対して思いやりが全くなくなってしまい、ただただお互いの負担になっているだけだと、わたしが感じてしまったからだ。

人が誰かと付き合う理由は、悲しみを半分にして喜びを2倍にすることだと、わたしは思っている(よく聞くセリフだな)。それなのに彼と話すと悲しみがただただ2倍になっていただけで、むしろ話さないほうが平和な日々が続いていた。コロナのせい、といったらそれまでかもしれない。このゴールデンウィークに会えていたら違う結果だったかもわからない。

でも、別れた今、なんだかスッキリさえしている自分がいて、これからのことを想像すると自然とワクワクする。出会いが制限されない世界は、こんなにも広く鮮やかに見えて、可能性に満ち溢れたものなのか・・・。(恋人がいるいないは、あまり関係ないかもしれないけれど)。


その別れた恋人は去年のクリスマスからベトナムからパリに移り住んでいて、わたしたちはずっとずっと、パリに二人で住むことを夢見ていた。今まで東南アジアしか住んだことがないし、フランスのことなんてこれっぽっちも知らなかったわたしは、フランスに関する本を読み漁ったし、パリを舞台にした映画をたくさん観たし、(好きな洋画は『Before Sunset』『ミッドナイト・イン・パリ』、邦画だったら『新しい靴を履かなくちゃ』。)パリにすむインフルエンサーだってInstagramでフォローした。そうして、古くからあるものを美徳として大切にする、フランスの文化・人を大好きになったのだ。

彼とお別れしてしまった今、「パリを好きな私」だけが取り残されてしまった。(側から見たらなんて冷めている女なんだと思われてもしかがたない言いようですが、2年も遠距離が続いていたのだから、本当に好きだったことは確かですよ)。


──といった個人的な長い前置きは置いておいて、そんなときに積ん読にしていた数ある本の中から手に取ったのが、川内有緒さんの『パリでメシを食う。』だった。結論から言うとわたしは、この本を読んでますます、これからの人生のどこかでフランス語を勉強し、パリに住まないと気が済まなくなってしまった。

これは、自分の好きなものを守って、追い求めパリにたどり着いた、10人の日本人の軌跡だ。作者の川内さんが、丁寧に、丁寧に取材して書いた一冊である。この本を読んで、改めて「人は本当にどう生きることもできる」と、思った。普通の人生など、この世にはまるで存在しないのだ。

紹介されている人々は、三ツ星レストランの厨房で働く料理人、オペラ座に漫画喫茶を開いた若夫婦、パリコレで活躍するスタイリスト、カメラマン、花屋・・・と、幅広い。本を読んだら誰もが、漏れなく10人全員のファンになると思うのだが、ここでは特に印象に残った2人について書き残したい。

生き方、働き方、家族、夢、結婚観、恋愛観、さまざまな視点でこの本から学ぶことはあるのだけれど、「恋人と別れた今のわたし」が読んだことを理由に、感想は主に家族、結婚観の話になるのでご了承願いたい。また別のアイフステージで読んだら、違う想いを抱くんだろうな。


この本に出てくる10人の人生には、大切な“誰か”がいる場合が多く、主人公の人生を支える。美術に縁のないまま“芸術の都”に向かい、アーティストになったエツツには自由気ままな恋人ブルーノがいたし、三度海を渡った鍼灸師にも彼を支える奥さんの基久乃さんがいた。改めてパリは「愛の街」だなぁ、と思う。

路上のドラマを切り取るカメラマン

「パリは、人間の生々しい体臭を感じる街ですよね。パリでは人間が路上で生活しているじゃないですか。だから僕はパリに惹かれるんです。」

そう話す、パリ在住カメラマンの神部シュンさん。この言葉が、カメラマンとしての彼がパリという街を選ぶ理由のすべてだ。

わたしが初めてパリに行った去年の11月、同じことを思った。ベトナムのハノイ生活が長かったので、大都市パリを見て「ここはハノイだ」と、思った記憶がある。それもそのはず、ベトナムのハノイにはフランス植民地時代の名残がだいぶ残っており、今でもフランスの建築物やカフェ文化が残っている。ハノイがパリを真似したのに、ハノイを先に訪れてしまった私は、パリを「ハノイのようだ」と、思ってしまったのだ。

そう思うくらいに、パリには私が思い描いていたような大都市感がなく、路上ではハノイの旧市街のように人々が「生活」をしていたのだ。

「最近は、ニューヨークもロンドンも東京も、ショーウインドー化してしまっていると思いませんか。売っている商品も情報もその街の中で作られたものではなく、外から運ばれて来たもの。街にあるのはショーウインドーだけ。でもパリは違う。職人がいて、その人が作ったものがそこで売られている。それが、この街を“都市”でありながら“村”のようなものに仕立て上げる。そして人々は、路上を生活の場にしているから、人生のドラマが路上で起こっているんです。」

フランスの人はMade in Franceのモノを購入する傾向がある、フランスで作られているモノを大切にしているのだと、聞いたことがある。これはわたしがフランスを好きになった理由の一つでもある。


シュンさんの話に戻る。行動力の塊で、情熱的なカメラマンである彼に起こった出来事で、(今のわたしだからこそ)印象に残ったエピソードがある。

パリで仕事も増え、すべてがうまく転がっていた時期に起こった出来事。当時の恋人のルーマニア人との間に、子どもが生まれることになった。当時のことを「青天の霹靂だった」とも話す。話し合った結果、二人は結婚せずに、交代で子育てをすることに決めた。いかにもフランスらしい、責任の取り方、だ。

日本では責任を取るといえば「結婚をする」「養育費を出す」などを考えると思うが、フランスで結婚は二の次。

フランスという国では、本当に家族の定義が曖昧だ。戸籍や血のつながりは関係なく「家族」になれる。今や子どもたちの二人に一人は、両親が結婚していないカップルから生まれてくるという。結婚までいきついたカップルの半分は離婚してしまう場合が多いのだとか。1993年には、「パックス」と呼ばれる同性・異性を問わないカップルの共同生活の形が法制化されている。

この国では、家族とは概念的な存在で、そこに必要なのは愛だけなのかもしれない。愛が家族を形作るとしたら、三人は家族そのものだった。

本の中には、シュンさんと息子のユリオくんの絆、母親である“元”恋人アドリアナとの愛ある家庭についても描かれている。結婚しているから家族と呼ぶのではなく、愛で結ばれる集団を家族と呼ぶ──人にはいくつも「家族」という存在がいていいのかもしれない、家族だから愛さなければいけない、なんてことも、本当はないのかもしれない。

私はシュンさんの話を読んで、自分の元恋人のことを思い出した。彼はベトナム人だが、幼い頃からフランスで育ち、フランスで働き、フランスの文化を見て生きてきた人だ。一度、(いや、おそらくそれ以上)お互いの結婚観で喧嘩をしたことがあった。

「両親も離婚しているし、結婚でうまくいっている人を見たことがない。結婚は信じていないよ。紙切れ一枚に愛を約束して、一体何の意味があるんだろうね。その紙がないと、証明できないほど脆い愛なの?」


この本を読んだ今なら、少し彼の気持ちもわかる。結婚しなくてもいいフランスという国で、「結婚」を選択したカップルには、どんな理由や想いがあるのだろうと、聞いてみたくなった。


シュンさんのストーリーを一通り読み終えたわたしは、彼がどんな写真を撮るのか見たくて、ネット上を探してみた。あまり情報がなかったのだが、見つけたいくつかの写真には愛が溢れていて、釘付けになった。そこにはパリの人々の日常が、切り取られていた。愛のある写真ばかりだ。


「日常とは、決して平凡という意味ではない」

本に綴られていたシュンさんの言葉。彼の日常を切り取る写真にぴったりだ。

日常、日常、日常。「つねひごろ。ふだん。」それは、「平凡」という意味ではない。この本を読んでいると、普通な人生なんてないように、「平凡な日々」なんてないのかもな、とも思う。日常こそ、美しい、尊いものだと、家に籠る今だからこそ余計に感じる。



家族とアフリカと哲学を愛する花屋

ほんとうはもっと紹介したい言葉がたくさんあったのだけれど、思った以上にシュンさんの話が長くなってしまったので、本書で10人目に紹介されている久保田さんの言葉を最後に紹介したい。

パリで花屋を営む久保田さんは、健康上の問題や商業主義との矛盾に苦しんでいた。数々の困難に立ち向かう中で、奥さんの清美さんに出会ったことをきっかけに、やめようとした花屋をパリで続ける決心をする。

「彼女が犬の花ちゃんが留守番する花屋をやるのが夢だったと言ったから、花屋を続けようと思ったんです。」

ああ、誰かと生きるって、そういうことだよな、と思った。一人ではできないことができるようになったり、頑張れたり、強くなれたりする。あたりまえのことだけれど、ひとりでも生きられるのに、誰かといることを選ぶこのシンプルな理由を、ついつい忘れてしまうときがある。自分は相手の、そういう存在になれているだろうか?相手の「頑張る理由」になれているか?ただただ自分だけ、相手に依存してしまっていないか?と、常に問いたい。


花屋を営む久保田さんと清美さんの、二人の価値観が、とても素敵だった。

「花はそこにあるだけで」

「花って、そこにあるだけで、気分を明るく、幸せにしてくれるじゃないですか。」

これが、清美さんが花を好きな理由だ。著者は、「清美さんだけでなく、この家族(犬の花ちゃんと久保田さん)は、お互いにとって花のような存在だ」と、考察する。

結婚式や誕生日のような幸せの瞬間も、お葬式のような悲しみの中にも、ただそこに花があることを人は求める。ちょっとした日々の中でも、人は花を買い、部屋に飾り、誰かに贈る。花は人生に、何気なく寄り添うような存在だ。


わたしも誰かの、花のような存在になりたい、と思った。誰かと生きるって、ほんとうに素敵で、あたたかくて尊くて、奇跡のようだ。いままで、まるで違う人生を生きてきた人間が、一緒に生きるなんて、面白いし、難しいし、無敵だし、ワクワクするし、楽しい。「結婚」が何になるかなんてわからないけれど、結婚したことないのだから、するまでわからない、とも思う。



今は修行あるのみだなあ、としみじみするゴールデンウィーク後半の夜でした。わたしはこの本を、人生に迷ったときにまた読み返す、と思う。

外出自粛が終わって、また世界を旅できる日々が戻ってきたら、使いそびれた航空券を使って、パリに行きたい。


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