2022年1月 - 今月のスナップとエッセイ
「初夢、何見るかな?」
ベッドを整えながら、夫が言った。わたしは「良い夢がいいなあ」と言い、布団にくるまった。ひんやりとしている。ああ、寒い寒い。
「電気消すね」「うん、おやすみ」
わたしは目を閉じ、眠気に身を委ねた。
結局、初夢は見なかった。正確に言えば、起きた瞬間に忘れてしまったのだ。夫も同じようなことを言っていた。
そうして、わたしの2022年は始まった。
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正月、夫婦でわたしの実家へ行った。
父と合流したのち、富士川SAへ立ち寄った。父が買い物をしている間、わたしと夫はSA内にある大観覧車に乗った。
約12分の空中散歩。初夢で一富士二鷹三茄子は見られなかったが、現実で綺麗な富士山を見た。静岡県民のわたしにとって、富士山は身近な山だ。そして、その山は何度見ても美しいと思う。
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次は、初詣。
地元の神社へ向かう。
参拝し、御守をいただき、そろそろ実家へ向かおうかというときだった。
わたしは、中年女性に「すみません」と声をかけられた。写真を撮ってほしいとのことだ。快く「いいですよ」と答えた。
その女性は「ひとりだけどね」と笑い、わたしにカメラを渡した。
「どこを背景に撮りましょうか?」
「この辺りが入れば」
わたしがカメラを向けると「写真の時だけマスクとっていいかしら」と彼女は言った。わたしは「ぜひぜひ」と言い、シャッターを切った。
「ありがとうね」
写真を確認してもらった後の、その一言が嬉しかった。
カメラを持って出掛けると、このような機会にたびたび遭遇する。誰かの”写真に残したい”に応える、それはわたしにとっての喜びだ。
シャッターを切った瞬間に馳せられた思いを大切にしたい。誰でも綺麗な写真が撮れるこの時代だからこそ、その1枚への思いを大切にしたい。自分の写真であっても、誰かの写真であっても。
久しぶりの実家では、正月番組を見ながら、飲んで食べて話して猫を愛でた。
新年の抱負は思い浮かばない。しかし、会いたいとときに会う、やりたいときにやる、今年もその気持ちを胸に生きていきたい。
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2022年1月。海の向こうでは、トンガ沖で大規模な海底火山の噴火が起きた。この国では、オミクロン株が大流行している。わたしも3回目のワクチンを接種し、副反応で2日間寝込んだ。まったく、この世にはどうにもできないことが多すぎる。わたしは、一言では到底片づけられない難しい感情に苛まれた。
見出しだけで気が沈むニュースと冷たい冬の雨は、ゆっくりとわたしを疲弊させていった。
ある日突然、カメラを触れなくなった。すると、空の青さ、光の美しさ、街の空気、それらを感じる心が一気に薄れていった。世界の色が褪せていく。自分の感受性が低下していくことに、焦りをおぼえた。
これはまずいと、とにかく寝た。これでもかというほど寝た。仕事と食事と風呂以外は寝た。その生活を1週間続けたら、ようやくカメラが触れるようになった。世界に色が戻っていく。久しぶりに撮り歩いた日、ようやくわたしがわたしに戻れた気がした。
冬の日照時間の短さは、体調に悪影響を及ぼす。これが結構侮れなくて、毎年悩まされている。人間の暮らしは進化しても、動物としての人間が進化しているわけではない。なるべく身体に優しい生き方をしたいものである。
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2022年が始まって、早くも1ヶ月が経とうとしている。「時が過ぎるのは早い」だとか「もう月末か」だとかよく書いているが、毎月本当にそう思っている。
面白いのは、過ぎ去る1ヶ月の中に必ず”変化”が見られることだ。日本や世界の出来事はもちろんだが、何もないような日々を積み重ねている自分の心ですら変わっていく。
それはこうして書いてみないとわからないし、書かなければ「今月もあっという間だったな」で終わりなのである。
写真も同じで、自分の内面が反映される。撮った写真から見えるものを、今年も追い求めていこう。
書き続けられる間、書いて、撮り続けられる間、撮っていきたい。
自分と向き合うために。
それでは、良い写真生活を。