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2022年8月 - 今月のスナップとエッセイ

せつない刹那

刹那の1日

 空が白む。わたしは、幾度目かの寝返りを打った。眠っては起き、時計を見る。さっきから、10分しか経っていない。これなら、もう起きてしまったほうがいいのではないか?

 そう思い、寝返りを打ち返す。

 いやいや、今日も仕事だからね。無理矢理、目を閉じる。幾度目かの、10分の夢旅行へ。見る夢は、毎回違う。でも、空だって飛べる、夢の中でなら。

 しかし現実では、空は飛べないのである。飛ぶのは、この我の意識。日中の耐えられない眠気に「睡魔よ、なぜ夜に来ないのか?」と恨み節で自問自答する。

 家に帰り、風呂に入り夕飯を食べる。やりたいことは山ほどあるのに、身体が動かない。また今日もだめでした。

 のそのそと、冷蔵庫のドアを開ける。

 カシュッと缶ビール。これさえ飲まなければ、もう少し痩せるのにな、と思いながらグビグビ飲む。

 お疲れ、わたし。お疲れ、今日。

刹那の1ヶ月

 こんな日を7回繰り返せば、1週間。
 さらにそれを、4回と少し繰り返せば、1ヶ月。

 え、何?雑すぎ?
 朝が来て、昼が来て、夜が来る。それの繰り返し。気がつけば月末で、こうしてnoteを書いている。

刹那の季節

 8月の終わりのとある朝。
 外に出ると、空気の冷たさを肌で感じた。息を、深く吸う。わたしの心に、ひんやりと風が吹いた。蝉の声は、もう聞こえない。

 もしかして、夏終わる?

 季節にすら、疎くなった自分。今日も、なんとなく生きている自分。これでいいのか?わたしよ。

 年を追うごとに、時の流れが早くなる。それは、仕方がないことであろう。しかし、それに抗いたい。それはわたしにとって、この人生へのせめてもの抵抗なのだ。

 切ない刹那。今日もかわらず、日は暮れる。

日常と非日常のコントラスト

 というように、繰り返しの日々を淡々と過ごしていた。そこに、彩りを与えてくれたのが、旅である。

 夏期休暇に、夫婦で富山へ行ってきた。

 避暑地、黒部峡谷。6年前、ひとりで訪れた。夏の涼を、深い渓谷に閉じ込めたかのような光景に、わたしは圧倒された。

「もう一度、ここに来たい」あの時そう思ったのを、鮮明に覚えている。だが黒部は、静岡から遠いのだ。「再訪の機会は、しばらくないだろうな」と、心のどこかで感じていた。

 しかし結婚を機に、「夫にも、あの景色を見てもらいたい」と、思うようになった。それほどに、魅力的な場所だった。そして今回、再び黒部の地を訪れる運びとなったのである。

 昨今の異常気象により、あの夏の涼が今も健在か心配であった。しかし、現地に行くと、その心配は吹き飛んだ。かの6年前に感じた黒部の風が、出迎えてくれたからである。
 渓谷の涼風、柔らかい太陽光、そこに流れる川のせせらぎは、筆舌に尽くしがたい。

 日々のストレスも憂いも、黒部の清らかな水に流れていくようであった。

 旅は、いいもんだな。
 目的地に向かうまでも、その帰り道も、全てを含めて、旅である。

 特急ひだに揺られる。列車の窓の向こうで、バーベキューをしていた家族が、手を振ってきた。思わず、手を振りかえす。数秒の光景が、胸に焼き付く。そんな、2022年の夏。

 日常と非日常の対比は、人生への刺激となる。ありふれた毎日があるからこそ、特別な旅がある。しかし、逆もまた然りである。

 旅をしている最中、ふと自分の暮らしを振り返る瞬間がある。普段の自分を、少し離れたところから見つめている自分がいる。
 普段、感謝もせずに生きている毎日は、そこにあるだけで、ありがたいもの。列車に揺られ、知らない景色を見ていると、不思議とそう思うのだ。

 旅は、わたしに、大切なことを教えてくれる。

 やりたいことがやれる。
 それは、本当に幸せなことだ。

 身体が動く時間は有限である。それなら、行きたいところに行こう。見たい景色を見よう。そしてまた、日常を生きていこう。
 どちらも大切な時間だから。

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8月と写真

写真展で涙ぐむ

 8月21日まで渋谷PARCOで開催されていた“『ラブレター』出版記念 幡野広志のことばと写真展 family”に足を運んだ。

 幡野広志さんは、わたしの好きな写真家のひとりである。素敵なのは写真だけではない。紡ぐ言葉が、とても素敵なお方なのだ。それは、水のように、空気のように、この身に吸収されていく。

 幡野さんの写真展に行き、涙があふれてきた。誰かの展示で涙ぐむ。それは、生まれて初めての経験だった。言いようがない思いで、胸が張り裂けそうになった。
 家族、というテーマ。そこに描かれていたのは、澄んだ愛だった。こんな表現では、陳腐なのだろうけど、とにかく愛が溢れていた。会場いっぱいに、愛が溢れていた。

 わたしは、わたしの家族に、思いを馳せた。自分の生きてきた道と、作品が重なり合った瞬間、目頭が熱くなった。

表現者として生きたい

 先月は、ほとほと自分の写真に向き合えなかった。切れないシャッターに向き合えば向き合うほど、曇った感情に支配されていく。振り返ると、苦しい月であった。

 今月は、撮れない時は、撮らなくていい、と決めた。シャッターが切れない自分に、心が動かない自分にうんざりしていたのだ。

 それならば、いっそのこと休んでしまおう。

 そう決意し、しばらく経った頃。ある日、自然とシャッターを切っている自分がいた。自然と、撮りたいと思う自分がいた。暗闇に、光が差し込んだ気がした。

 それからはまるで、水を得た魚。とはいえ、水を張り替えたというのが正解かもしれない。無理をして、濁った水の中を泳がなくてもいいのだ。真新しい水で満たしていく。休むとは、そういうことなのかもしれない。

 写真が撮れる。それが嬉しかった。
 わたしの心は、まだ死んじゃあいないんだよ。 

 後日、友人を撮った。わたしに撮ってもらってよかったと感謝された。
 その言葉ひとつが、どれだけ嬉しいことか。

 やはり、わたしの居場所は、ここなのだ。
 写真と文章。表現者として、生きてゆきたい。

 0か100でなくてもいい。わたしはわたしの人生を表現していく。
 進んで、立ち止まって、休んで。わたしは表現し続ける。

 それでは、良い写真生活を。


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miho
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