「時を止める」という効能について
料理研究家の土井善晴さんのこんなツイートが目に入った。
ちょうどこの「煮物」をつくる番組を見ていたので、「手紙」のくだりはようく覚えていた。
じゃがいもだかにんじんだかの煮物を作っていて、明確に「20分煮込んでください」とも言わずに、ただ「美味しく煮込んでください」「煮物なんてほっときゃできます」といったことを、土井先生はおっしゃっていた。
その間に手紙でも書きつければどうか、とささやかな提案をして、女性アナウンサーが「まあ、素敵」とやや驚き混じりに微笑む、そんな番組だった。
私はほほうと思って眺めていたが、改めて土井先生に「なぜこのくだりが支持されたのか」と問われると考え込む。
確かに、なんの特別なことは言っていない。
土井先生のスタイルは決して肩肘張らない持続可能な日々の振る舞いとしての、ただし洗練されうる身振りとしての「料理」だ。
当人からすると、当たり前のレベルでの発言だったのかもしれない。
(ときに超人は当たり前のレベルが「超」のレベルなので、ほんの仕草が言語化できない何かによって研ぎ澄まされて誰も理解や共感しえなかったりする)
ここで、私はこの一連の現象を「時間」という切り口で考えてみようと思い立った。
かの私の師である今福龍太先生は、ある講義で実に退屈なモノクローム映画を学生に見せ、時間の概念について説明した。
(先生、ごめんなさい。あのときの私は若くて、とびきり刺激のある事柄か、脳の報酬系に作用するタスクか、ゼラチンみたいな柔らかい妄想にしか興味がなかったんです)
記憶の中の師は語り始める。
「時間には『クロノス時間』と『カイロス時間』の2種類が存在する。」
前者の「クロノス時間」は私たちが余計によって支配される、客観的で正確で一方向の時間。
後者の「カイロス時間」は物語内でたびたび編集されうる主観的で伸び縮みしたり逆転したりする何が起こるか分からない内的な時間だと。
人間ひとりひとりが固有の「カイロス時間」をもち、長針と短針の遠心力に日々振り回されているとしたら、土井先生の問いかけは別の意味を帯びてくる。
そもそも私の、あなたの体内に埋め込まれた「カイロス時間」は、果たしてコントロール可能なものなのだろうか。
私の仕事のスケジュールは毎日テトリスのように複雑怪奇な穴埋めゲームになっているし、明日の段取りも覚えちゃいられない。
正確に覚えていると、睡眠に差し障るので覚えないことにしている。
なにせ誰かの仕事のための仕事がある。
時間に対する報酬が支払われない仕事もある。
日曜日も時間に不自由していた。
雨が降っていたから、「ブルシットジョブ・ジョブ」と「Netflixのルール」を交互に読んでいたら、気分が落ち込んですっかり眠りこけてしまったこと。
私の手のひらの中にあったはずの時間が、他者や自然にコントロールされているかのように見えて、実のところ、むんずと強く握り戻すのが面倒なだけだったりもする。
時間があったところでまたせっせと昼寝してしまうし、なんだかんだ仕事は注いだ時間の量だけ私を評価してくれる。
手っ取り早く報酬系をちくちくと刺激して、欠けた自己肯定感の輪郭をやさしく満たしてくれる。
「カイロス時間」を「クロノス時間」に釘で打ち付けて切り売りするのは簡単だ。
テトリスは頼られていることの証だと半分くらい本気で思っている。
けれど、この身はまだ20代だというのに、本当に身体の奥底にある私の、私だけの時間は、もうしわくちゃなのだ。
あんなにハンカチのようにピンと伸ばしていたはずなのに。
押し寄せてくるのは誰の時間の都合でもない。
私と他者で構成される世界の時間の狭間にある、永遠に分かり合えない距離の次元の違いが、私をねじ曲げてしまうのだ。
何かを「つくる」という行為はそんな私を適度にあやしてくれる。
「つくる」までは何をつくろうとしているのかは分からない。
文章をつくる、料理をつくる、会話をつくる。
たとえレシピがあっても、つくるまでは形をもちえない。
それは、評価や承認をやすやすと飛び越えて、自分が何をつくりたかったのか、という答えをとうとうと語り出す。
つくるまで、私が何をつくらんとしているにかは本当には分からない。
気付くと私に刻みつけられた時間の「しわ」はたたき伸ばされ、ほんの少ししゃんとする。
マインドフルネスは、残念ながら私にはちょっと向かない。
どんなに心を穏やかにしても、どんなにヨガのポーズをとっても、奥底から湧き上がるノイズを消し去ることも押さえつけることもできなかったからだ。
内面を観察し続けても、しつこくCPUを食い続ける頭の働きにあきれることしかできなかった。
身体の強制停止のようで違和感が残ったが、得意な人は得意なんだろう。
私には睡眠の方がよっぽど効く。
土井先生があのとき「空いた時間でTwitterでも、」などと言うものなら、こんなに多くの共感は得られなかっただろう。
もう日常になってしまった、誰かと誰かの時間がめまぐるしく交差する広場に目半開きで参加する時間なのだから。
それこそ青い鳥たちの大渋滞だ。
けれど手紙という伝える言葉を「つくる」、誰にも邪魔されない一方的で、ちょっと勝手な作業なら。
ざらざらした便箋やボールペンの滑らかな回転、のりや切手の用意だとか、不自由を楽しみながらつくることができる。
野菜が煮えるまでの時間、待つ不自由を感じながらつくることができる。
時間の脇を横切るものの存在を感じながら、何かを生み出すことができる。
アナログ派ではないので、手段は正直どうだっていい。(私も今iPhoneで文字を打っている)
「つくる」行為と、それを通じて発生する形をもったものや、身体との接点は、そんなほんの少し時を止める効能があるのかもしれない。
だとしたら、向き不向きこそあれ、どんな薬よりも悪くない。
時間ともう少し仲良くなれたらなと思いながら、眠りについた。