弱いメディアが人間の行動を喚起する
公園の辺り一面に並べられる本。
原爆で没した方の名簿はその数117冊に達するそうだ。
風化を避けるため、毎年梅雨に入る直前の時期に作業が行われるらしい。
職員が頁1枚1枚を繰って手入れする。
気が遠くなりそうな作業だと思うのと同時に、アナログな何かに触れているから催されるありがちなセンチメンタルさとは別の、途方も無い時空の中で「所在」とは何かを考えさせられた。
未来のメディアは果たして電子なのか、という問いに対して、時空も認識も柔らかくこじ開けるように論考したのがウンベルト・エーコだ。
「西洋出版史に興味がある全員に読んで欲しい15冊」でも紹介した、『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』。
土壌汚染を現代人の理解できるアイコニックな形で残したところで、1万年も向こうにいる後世の人々には伝わるのだろうか。
かつて電子媒体として流通していたフロッピーディスクは跡形もなくなっており、再生機器ですら見当たらないというのに、電子媒体の「強さ」は本物なのだろうか。
誰もが理解可能な事例でもって、情報の海に流されがちな思考をゆっくりと立ち止める。
その語り口と、本自体の質感(なんと頁の縁が1枚1枚青く染まっていていて親しみやすいのに高貴なのだ)が好きで何度も読み直した。
ウンベルト・エーコは二度死ぬし、何度でも死ぬ。
命日を勘違いした人間のツイートや投稿を通じて、ウンベルト・エーコの所在は何度でも立ち上がる。
メディア(媒体)は複製可能な箱であり、性質によって壊れやすかったり、取り出したり複製するには鍵が必要だったりする。
鍵があまりにも別の道具や思考様式にフィットしすぎると、別の道具や様式に移行した際に耐えることができない。
AIがデータを学びすぎると他への応用が難しい計算モデルを生み出してしまうのと同様、メディアという箱が中長期的な所在を求めるなら適応しすぎてもだめなのだ。
本というフォーマットがある種の完成をみたものである、という言説は上記の点から賛成している。
本というものは事ある毎にくたびれる。
書店から買って帰るのも重たいし、棚に収納しておくにもすぐに溢れ出してくる。
運搬やら移動やら掃除やらで、たえまなく手間が必要な弱い動物のようだ。強さと弱さは相反する特性ではなく、相互強化的な関係にあることもある。
ふせんは弱いのりを改良することで、何度も貼ることが可能であるという強さを手に入れたし、弱いものを守ろうと強さを発揮できるという構造もある。
あるひとつの面からの強さ、正しさを追求するのではなく、相互に理解し、幸福を構築しようとする態度として、ウェルビーイングがある。
悲しいことに広告の仕事を埋没すると、ふと誰を幸せにする仕事なのか?と我に返ることがある。
この類の本を手に取るのもその靴の中の砂のような違和感による反動なのだと思う。
この本の中に、弱いロボットの事例がある。
(実は、この本以外にもよく紹介される事例だ)
例えばごみを減らす目的があったときに、「強い」ロボットというとさくさくごみを回収し、道路をぴかぴかにし、人間の手を煩わさない、というイメージが湧く。
ところが、このロボットはごみを見つけて、よたよた近づくと、人間に向かって「ここにごみが落ちている!」と必死にアピールをする。
そうすると、人間が気付いてごみを拾って捨ててくれるという算段だ。
一見非効率的に見えて、強いロボット像よりも、人間の行動を喚起し意識をやわらかく変えていくという点においてある種の「強さ」を獲得していることに気づく。
このロボットと関わった人は、別の場所でもごみをきちんと捨てるようになるかもしれないし、このロボットの話を他の人にもするようになるかもしれない。
人間の行動と意識を喚起させた、ある種の行動変容を促したところにこのロボットの「強さ」がある。
そう考えると、原爆被害者の名簿に「紙」を用いたことは、結果的に風化させないよう人々を集め、手を入れさせ、記憶させるという行動を喚起した点において成功している。
紙には敵がいっぱいだ。
虫も、風も、雨も、光も、みんな敵だ。
たとえこれらを乗り越えたところで、記憶から消えてしまったり、所有する必要がないと思われてしまったら終わりだ。
生存に人間を巻き込むことで生まれる文脈とささやかな所在のあり方を、117冊の名簿を吹き抜けた風の中に見た気がする。