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勉強する理由

小学3年生か4年生のころだったと思う。

学校に関する川柳?をつくって発表してみよう!という国語の授業で、

だるいけど いつか役立つ この授業

と詠んで、生徒投票で学年1位を獲得。一方、先生や母からは「え・・っと・・」とめちゃくちゃ苦笑いされる、という経験をした。

このできごとを未だにこんなに鮮明に覚えているのは、たぶんずっとこの気持ちがあるから。

「なぜ勉強するの?」

という気持ち。というか、問い。

「いつか役立つ?」という大人への問いだった。

こうした問いに明確な解を持てないまま、今日まで年をとってきたけど、最近少しだけ、こういうことかもしれないなぁと感じることがあった。

まだ道の途中である感は多分にあるけど、書いておきたいと思います。

可能性を広げるため

これは、けっこう信じていることかもしれない。

私はいつからか、「人生はいろいろな経験ができた方がおもしろい」と考えていて、好奇心のままにそこそこいろいろなことに手を出すようにしている、と思う。中にはつまらないものもあるけど、おもしろい出会いもある。

前職で新卒採用と研修をやっていたときにも伝えていたこと。

あまりアクティブに活動していないという学生さんには、とにかくたくさんの企業と会って話を聞いて、違いを比べて、自分が好ましいと感じる部分を選んで決めるのがいいだろうと伝えたし、

新入社員には、雑用のようなことでも任されたことはまずは好き嫌いせずにやってみたり、期限を守るやあいさつをするみたいな当たり前のことを徹底したり、そういうことの積み重ねで周りからの信頼を得られてよりたくさんの機会がもらえて、またそれにチャレンジすることで、自分の得手不得手や好き嫌いもわかってきたりするよ、と伝えた。

生涯コレ一本!という生き方に憧れを感じることもあるけど、知らないことは選択肢にはなり得ない。つまり、選択肢を増やすには、いろいろなことを知る必要がある。

その中に、コレというものが見つかるかもしれない。新しい自分の感性に出会えるかもしれない。つまり、可能性が広がるんじゃないかなと。

知らなかったことを知って、自分の選べることの幅を広げるために(その選択の基準をつくるためにも)、そして新しい可能性に出会うために、勉強するのかもしれない。

意思疎通のため

まったく違う星で生まれ育った相手とは、たぶんコミュニケーションできない。

星、国、地域、家庭、みたいな環境の違いだけじゃない。性、感覚、認識、志向、ロジック、状況などなどありとあらゆる個性によって、私たちは一人一人がまったくの他人で、お互いを100%理解し合うことなんてできない。

SFを観ていると、クローンでもそれぞれに意志を持って育っていたりするし。(余談)

人として生まれて、社会やコミュニティの中で生きていく限り、他人とのコミュニケーションや意思疎通は必要で、そのときに共通の言語や、必要最低限の共通の知識や常識みたいなものは必要だと思う。

例えば、自分の悲しみを「あーあー」という音で伝える。🥺という表情で伝える。「わたしはこういうことで悲しみを感じる。だから。あなたのああした行動にも悲しみを感じた。今後はこうしてほしい」と伝える。

どれも、その感情や表現方法や言葉を知らないとできないこと。

加えれば、送信だけじゃなく受信もそう。相手がどんな人でどんな感情や手段を持っているかを確認することや、時にはそれに合わせることも、そういう手段があることを知ったり学んだりすれば、実現できる可能性がある。

伝えたいことを伝えたい相手に、できるだけ伝わりやすいかたちで伝えたい。相手が伝えようとしていることも受け取りたい。そんなまっすぐなコミュニケーションのために、勉強するのかもしれない。

生きやすさのため

知ることで救われることがある、と思う。

先日、チームでClubhouseというサービスについて話していたときに、「FOMO」という言葉が出てきた。

■FOMO(fear of missing out:SNSから取り残される恐怖)

こちらの記事を読ませていただいて、私も知った。

Clubhouseは招待制のSNSのようなサービスで、瞬く間に広まった。そして、ユーザの滞在時間が長いという特徴があるらしい。シンプルにおもしろいとか、きっといろいろ理由はあると思う。

その上で、「FOMOってたしかにある気がする。でも、普通はFOMOなんて言葉知らないよね」と誰かが言った。私はふと、知ってよかったと思った。

例えば、私が無知な高校生だとして。周りの友だちがみんなClubhouseを楽しんでいたとして。私はちっともおもしろくないんだけど、でもトークに誘われたら断れない。それに、みんなが聴いてるトークを聴いておかないと話題についていけない。だからClubhouseにいる。もしそんな状態だったとして。

みんな楽しそうなのに私は楽しくない、自分ってみんなと違う、何かおかしいんじゃないか、異常なんじゃないか、それでもみんなとの関係は切れない、どうしたらいいかわからない、苦しい・・と、もしかしたら悩み続けたかもしれない。

無知な私はそんな自分を表す言葉を「コミュ障」「根暗」「付き合い悪い」「ぼっち」くらいしか知らなくて、劣等感でがんじがらめにしたかもしれない。

でも、そういう感覚の裏側に「FOMO」という現象があると知ったら・・

今は大人になって、他人との違いを受け止めたり、自分の機嫌をとったり、苦手なことに適度に線を引いたりすることもできるようになってきたけど、そして他人と自分との違いは個性だとも言えるけど、そうじゃなかった時代もたしかにあった。

個性は個性でとても大切なんだけど、それは誰かが認識してくれて初めて個性になる気もする。認識がないと、目的がないただの浮遊物みたいで行き場がない。(ちなみに、承認や理解ではなく「認識」だと思う)

自分で自分の個性や特性を認めてあげることも大切だけど、それしかない/それが一番というケースもあるかもしれないけど、

その特性に名前がある、カテゴリがある、ということは、その特性が認識されている、バイアスなく同じ特性について共有できる人がいる、という安心感になることもある。

そういう自分の認め方を知らないのは、生きていく上ですごく怖いことな気がする。だから、勉強するのかもしれない。

「勉強」の意味

だるいけど いつか役立つ? この授業

と詠んだ、小3の私にどんな言葉が届くか、彼女がどんなことをどれだけ知りたいと思っているかはわからないけど、今のところ私から伝えられそうなのは、「なぜ勉強するの?という問いへの答えはまだ探してる最中だけど、少なくとも、選択肢とかコミュニケーションとか生きやすさみたいなところに、役立っている気がするよ。それに、私はまだ勉強し続けてると思ってるし、これからもしていきたいと思ってるし、それを純粋に楽しいと思うこともたくさんあるよ」ということかな。・・届くだろうか。

ただ、ここまで書いてきて思ったのは、「勉強」の意味や定義のそもそもについて。

いろいろな人がいろいろな定義を持っていると思う。小3の私と今の私でもだいぶ違うはずだし、時代によって求められるかたちの変化も当然あると思う。これからもきっと変わっていく。

ここまで書いてきた、私の「勉強する理由」は「“知る”理由」や「“広げる”理由」みたいな感じだ。つまり、「勉強」とは、“知る”こと?“広げる”こと?そもそもそういう考えを形成するためのもの?なのだろうか?

必修で教えてほしい(ほしかった)ことってもっとあるよね、というテーマはけっこういろいろなところで話題になる。例えば、体のしくみや変化、身近な行政のこと、メンタルケア、保険や保障、お金の管理、政治、経済、地球環境などなど・・どれもそうだなと思うけど、これらは「勉強」だろうか?

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こんなことを考えてつらつらと書いていたタイミングで、昨日、とある教育系スタートアップの起業家の方のお話を聴く機会があった。その方いわく、「勉強というのは、理想の状態を実現するための手段の一つ。でも、いつしか教育の中から、その理想の状態の見つけ方・考え方という部分が抜けてしまった。そして、勉強という手段だけにフォーカスすることになってしまっている気がする。それを本来の姿に戻す挑戦をしたい」ということだった。

なんてタイミング!出会いに感謝!小3の私にまた伝えたい話が見つかった!と、思わず膝を打った。

私で言えば、健やかに豊かに生きていきたいという理想の状態があって、そのためには、選択肢とコミュニケーションと生きやすさが必要で、勉強からそれらに関することを得られると考えている、ということか。

うんうん。

そうか。まさにこの「うんうん」のように、何かが私の中に私らしいかたちで定着するという感覚も、というかむしろ、この感覚こそが「勉強」や「学び」なのかもしれない。そうタイムリーに感じる体験だった。

さて、これからその起業家の方の素敵なお話を記事にしていくのだけど、本当にとても楽しみだし、ぜひたくさんの人に読んでほしいなと思う。

ちなみにこの「編集」という仕事も、私がいろいろな選択肢の中から選んだもの。おそらくは勉強や学びによって、これまで私に蓄積されてきた知識や知見のかけらたちや、そこから生まれた私の考えや感覚、そして新しい学びへの好奇心や探究心なんかが、きっと記事のテーマとコラボレーションするはず。そんなことを期待できる作業。そしてまた私の中に新しい何かが私らしく定着する。そんなふうに信じてる。

そう。だるくないよ、たまらなく楽しい。

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