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わたしは拗らせたマザコンで、それなりにファザコン #2

母19歳、父23歳。2人は結婚した。

#1を読んでいない方は、こちらから。


うら若い母に課せられた使命がある。それは、後継となる男子を産むこと!
ひゃー! そんな時代。
よく昔のドラマに出てくる、男子を産めハラスメントは、昭和だとごく普通にあったのだろう。こんなあるある嫌だ。
経営がうまくいっていた自営業。まさか数十年後には卸業が時代の流れに乗れずに廃れていくとは、当時考えられないくらいノリに乗って、絶好調。
まだおぼこかった母は、従順にその使命を果たすべく21歳で第一子を出産。女の子だった。
その2年後には第二子を出産するが、また女の子。
その2年後には第三子を出産するが、これまた女の子。

さすがに母も一度は疲れたのか、いったんここで男子チャレンジを休止した。
元来、負けず嫌いの母なので、何としてでも男の子を産んでやろうと思ったのだろう。
死ぬ思いで産んだのに、100点をもらえないような状況だったとしたら、母があまりにも不憫だ。

私が長男を産んだ時に、母の妹である叔母さんから、武将の兜のミニチュアが5つほど入った飾り物をもらった。
「これ、お姉さん(私の母)からもらったのよ。お姉さんは、男の子が欲しくて願掛けにこれを家に飾っていたようなんだけど、もう必要ないから、あなたの息子たちのために飾ってあげて、と言ってくれたものでね。だから、今度はあなたの息子さんのために飾ってあげて」
とのことだった。

その兜は、わたしには気持ち的に重すぎて、ほとんど飾ることなく処分してしまった。
母がそれほどまで男の子を産まなくてはならないと思い詰めていたのかと想像すると、いくら時代とはいえ、祖父はじめとした我が家の環境に憤りも覚えた。ミニチュアの武将の兜はその権化のように思われたのだ。
そんなものを、わたしに背負わされても困る。

結婚しようが、しまいが、産みたいと思うおうが思うまいが、男であろうが女であろうが、そんなもん誰に口出しされるものでもない。自分の人生は、自分だけのものだ。どんな大事な家族であろうが、家が大事であろうが、どうして女の子を3人産んで100点もらえないのだ。
と、現代を生きるわたしなら言える。

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(左から、長女、三女、次女。後ろに父。私はまだ生まれていない。三姉妹の頃)

こういう事情があったから、母はわたしたちにはどこまでも自分らしく生きることを課した。
就職せずに、バイトをしながら小説を書いて文学賞に出そうと思うと話した時も、あなたにぴったりだからできるところまでやってみなさいと言ってくれた。
結婚しようかと相談した時も、嫌なら離婚すればいいのだから一度してみればいい、と言われたくらいだ。
子供は機会があれば産んでおいてもいいと思うけど、授からなければそれもまた楽しいだろう、というようなことは言っていた。
孫の顔を見たいなどと、一度たりとも言われたこともなかった。
もちろん孫たちのことは溺愛してくれたが、干渉することもなく、またサポートも頼まなければしてくれないスタンスだった。

バズーカー砲のようにとんでもない厄介ごとを唐突にぶち込んでくるような、手に負えないところのある母だったが、「わたしらしさ」をつねに尊重してくれたことには、感謝しかない。だから、どんなに嫌いになっても、どうしても好きなのだった。

わたしにも息子が2人いるが、彼ららしく生きてくれたらいいと思っている。
できれば、友達であれ、パートナーであれ、自分を理解してくれる人が1人でもそばにいてくれる人生ならいい。
そのうえで、1人きりでいる孤独を楽しめる人であってくれたら、なおいいと思う。
友達はたくさんいればいいというものではない。
たくさんの人に囲まれているのに、孤独な人はいる。
誰かがそばにいるのに寂しい、という類の孤独は残酷だ。
でも、誰かに愛されているという土台があって、あえて1人きりでいる孤独というのは甘美な時間でも、ある。
本を読むということも、そうだと思っている。

そういうわけで三女を産んでから5年経って、男子再チャレンジ! となって、ようやくご誕生したわたしなのだった。
4回目となれば、一回力んだら出てきたようで、父たちがお昼ご飯にうどんを食べに行って病院に戻ったら生まれていたって。
めっちゃ親孝行なのに、なぜかありがたい感が薄いご誕生である。
だってまた女子だもの。

「英子」という名前も、誰がつけたのかわからない。
父は「(次女)がつけたんやー」というが、記憶力のいい次女は、ぜったいに違うと否定する。
「お父さんやって!」
「いや、俺やない! ぜったいに違う!」
「でもわたしでもないから!」
自分の名付けを巡る、拒否(きょひ)り合い。生まれてすみません……と太宰治なみの自虐を言いたくなるものだ。

しかも4人目ともなると自分で育てなくてもいいと思ったのか、わたしは隣の家のおばちゃん、通称・ちゃあちゃんの家に託されることになる。
ちゃあちゃんとはまったく血縁関係はない。たまたま隣に住んでいただけの人だ。
若い母が育児に、義理の家の関係に、あたふたしているのを見かねて手を差し伸べてくれた、慈悲深い人が運良く隣人だったのだ。

このあたりのことは、いろんなエッセイで書いているのでこれくらいに。
もしかしたら、後ほど。
とにかく産院からそのまま、ちゃあちゃんの家に直行したというから、迷いがない。
そして、わたしは高校で寮に入るまで、ちゃあちゃんの家で暮らすのだ。

子供の頃のわたしは、母と一緒に寝たことがなかった。
いや、正確には一度だけあった。
6歳の時だ。
ちゃあちゃんの旦那さんが危篤の時に、みんな病院で待機するため、私は実家で母と寝ることになった。はじめての実家、しかもあまり親近感を持てない実母の隣で、まったく眠れなくて、まだ暗いうちからずっと、ちゃあちゃんの家の前で待っていた。
明け方になって隣に私がいないことに気づいた母が、探しにきた。
「英ちゃん、何やってんのよ、こんなところで」
「ちゃあちゃん待ってる」

そう言った時の、母の困ったような表情もすごく鮮明に覚えている。
こういう特殊な親子関係だから、わたしが母との関係を拗らせたのも致し方ないとも思えるのだ。

話が逸れた。
5人目もトライしようと母は思っていたらしいが、父が止めたという。この4人を育てることをまず考えようと。

じつは、わたしの後に母は一度みごもった。
子宮外妊娠で、卵管が破裂して生死をさまったらしい。
応接間で泡を吹いて倒れているところを、新聞をとっていないことを不審に思ったちゃあちゃんが発見してくれたので、一命を取り留めた。本当に、いろんな意味でちゃあちゃんと母は縁が深いのだろう。

その時に、母なりの決着をつけたかったのか、子宮を取ってもらったそうだ。
ようやく、男子を産むという使命から解放された瞬間だった。

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(ちゃあちゃんとわたし。わたしにとって真の母性はちゃあちゃんだ。我が子と同じように育ててもらったので、わたしは、家族というのは「血」ではないと思っている)

後に、母は新興宗教にのめり込む。
それも一つではなく、いくつも。

時には、同時並行で違う神様を崇め、お布施をしまくっていた。
どうしてそんなことになったのか、母に聞いたことがある。

「30代の頃に、ビルの屋上にまで行ったことがあったんよ。もういっそ、何もかも終わってしまったほうが楽やろ。でもまだ子供は小さいし、やっぱり死ねないと踏みとどまったんやけど、どうしてこんな気持ちにならなくちゃいけないのか、わからなかった。
今の自分に原因があると思えないようなことが降りかかってくる。
どうしてなのか。
この世の真理を知りたいと思ったんやわ」

この世の真理を知りたい、というのが理由だと言われて、まだ大学生だったわたしは、わかるような、わからないような気持ちになったものだ。
今でも、わかるようでわからない。
いまのわたしなら、この世の真理なんてないやろ、と言い返すかもしれない。
生きていることに意味なんてない。
だけど、無意味とは違う。
ただ生きていくしかないんじゃないか。
人間の小さな脳みそで考えたところで理解できないシステムの中で、ただ生かされている。
真理があるなら、それなのではないか。



(母の神様のおかげで家庭崩壊編へと続く)

https://note.com/ozakieiko/n/na481a52369bf

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