黄色いダスキン 〈 お母さん、あのね 第1話 〉
土曜日の朝10時になると、インターホンを鳴らす人がいた。
「ダスキンでーす」
黄色い新しいレンタルモップを家に持ってきてくれる、あの顔だ。
それを受け取りに行くのが、当時小学生だった、私の役目だった。
その新しいモップはどこかオイル臭くて、柔らかくて、ふかふかだった。
おばさんはいつも私に「えらいねぇ」と言って話かけるけど
私はおばさんの顔を見ることもなく、いつも無言でそれを受け取っていた。
「ダスキンなんてなくなればいいのに」と心の中で思っていたから。
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黄色いモップで床を掃除する母は、いつもイライラしていた。
埃を集める顔は固くて、話しかけても母は私を見ずに床のゴミを目で追っていた。
母は教員で何十年もの間、担任という責務を負っていた。
家に帰る時間は遅く、学童から帰る私の方が早く家に着く。
鍵を忘れると、玄関の前で待つしかない。
そんな私を見て、近所の人が家族が帰ってくるまでと家の中へ入れてくれた。
母の帰る自転車の音で、自分の家に戻る。
母は、鍵を忘れた私を叱って、そして黄色いモップを手にとる。
リビングから始まり、廊下、洗面、玄関へと黙々と掃く。
集めたごみを玄関のはたきでモップを振って落とす。
カシャカシャッという音はいつも、怒って聞こえた。
けれど私はいつも、こう言ってしまうのだ。
「お腹がすいた」「今日の晩御飯は何?」「今日はいつもより遅いね」
そうすると母は、大きな声で、私を怒鳴った。
私は、夕飯を作る前に床掃除なんかする母のその習慣が、嫌いだった。
ダスキンなんて、なくなればいいのに。
掃除なんか辞めて、ご飯を作ってくれたらいいのに。
先生なんか辞めて、お母さんになればいいのに。
『電気のついた、温かい家に帰りたい。』
それが当時私の中にあった願いだった。
それは、小学生の私が見ていた、私が作り出した、世界。
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いつしか私も母になり、専業主婦になってやっと、
ふっと気づいたことがあった。
私が子どもを怒鳴ってしまう時、私は自分のどこかが痛い時だと。
PMSで体が思うように動かなかったり、頭の中が散乱している時もある。
子どもに大きな声を出して初めてハッと気が付く。
私、自分のことを大事にできていなかったって。
あの時の母はどうだったのか。
母はあの時、静かに床を掃いて、自分の心をなんとか手当てしようとしていたのかもしれない。
毎日、大きな責任と膨大な仕事に追われて、
正直家族どころでなかったはずの母は、
『電気をつけて、温かい家で子どもを迎えたい。』
そう思いながら、自転車を漕いで家へ帰っていたのかもしれない。
あのモップがけの時間は、そんな自分と対話する大切な時間だったのかもしれない。
そんな時に私は必ず、「お腹がすいた、早く作って」と責めるように母を追いかけていたのかもしれない。
怒鳴るしかなかったのかもしれない。
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私自身が今、大切な愛しい5歳の娘に対して、
“ある時だけ”ものすのすごくイライラして、
それが起こることを恐怖に感じている瞬間があることをここに打ち明ける。
それは、私がやりたいことがあって一人にどうしてもなりたい時、
娘に泣いて行かないでと言われる時だ。
そんな時私は、いつも「怖さ」を感じて必要以上に焦ってしまう。
どうして行かせてくれないの?
いつもあなたと一緒にいるのに、どうして少しの時間をくれないの?
私を大事にしてくれないの?
私を困らせたいの?
ーーーーもちろんそうでない。
ではないのに、私は泣く娘を更に、泣かせてしまう。
泣きたいのはこっちだー。
声を荒げたくもなる。
もしかしたら、
あの時の母と、私はそれは、同じなのかもしれない。
抱えているものを一旦下ろして、ふっと軽くなるために、
一人になろうとする自分の足を引っ張られているような苦しい気持ち。
頑張っているのに、頑張りたいのに、
まるで家族がみんな私を責めているような気持ち。
でも本当はそうじゃない。
娘が「行かないで」と泣くのは、私を困らせないのではくて
私に「お母さん、大好き」って言っているだけなの。
小さい頃母に「お腹すいた、早く作って」と私が言ったのは、
「お母さん、大好き」って言いたかっただけだった。
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小学生の私はあの時、こう言って欲しかった。
「今ね、一人になって掃除して、ニコニコになってご飯作るから、
待っていてね。大好きだよ。」
そして私はこう言いたかった。
「うん、わかった。私待ってるね。」
あの黄色いモップが、
母を笑顔にする魔法のステッキに見えていたのかもしれない。
だから私は、娘が「ママ行かないで」と泣くことがあればこう言う。
「ママは一人の時間を少しもらって、ニコニコになって帰ってくるね。
大好きだよ。」
私があの日1番欲しかった言葉を、今娘にかけよう。
だから今、言いたいことがあるの。
お母さん、あのね。
お母さん、あの頃、本当に頑張っていたんだね。
おわり