
10年以上も日記が続いている理由について考えてみた。
日記を書くといい、それはわかってる。わかってるんだけど続かない。
そういう人が多いらしいと最近知った。
私はがっつり診断済みのADHDで、「目につくもの全てを先送りする」ことでお馴染みだ。ダイエットも、会社員時代のタスクも、フリーランスになってからは死活問題なタスクですらも、何もかもを先送りしまくっている。
そんな私が、なぜか10年以上にもわたって続いているものがある。
それが日記だった。
それに気づいたのは「自己肯定感を高めよう」というワークのなかで、自分が過去にこれだけは続いたというものを書き出してみよう、というものがあった。
ノートを開き、ボールペンを握り続けること数分、
「何も思いつかんやんけ…ふざけんなこのワーク!
もうええわ、ありがとうございました!日記書いてねよっ」
あれ?
「日記」「書いて」「寝よ」
続いていること、あるじゃないですか。
そして思った、
「大抵のことが世の人々に比べてできない私が、なぜ日記だけは続んだろう?」
そしてこのことが、日記を続けられないと嘆く人のヒントの一つでもなればいいと思い、ベッドで寝そべりながらこの記事を書き殴っている。
(机でパソコンを開くという行動すら嫌気がさしてできないほどの先送り人間なので)
思いつく理由は一つだ。
私は「ノート」と呼ばれる類のものを、子供の頃からずっと自分のそばに置いておくことが好き、ということだ。
「いやどういうこと?」
もちろん、誰もが学校にはノートを持っていきますよね。
でもそれは、多くの場合は日記を書くためではなく、学校の授業を書きとったり、親や教師へ誰かに見せるための日誌であったりだったと思うんです。
それに対し私がとっていた行動、否、そうせずにはいられなかった行動とは、家に帰って友達の家に遊びに行くときもなぜだかわからないけど、ノートを手放したくなくて、ついトートバッグに入れてしまうということ。
もちろん重さなども考えるとどこに行くにも肌身離さずではありませんが、何かノートを持っていなければ取りこぼしてしまうものがあるんじゃないかという、謎の不安感を持って生きていました。
あれがなんの衝動だったのか、わかりませんが今も似たような行動をとっていることに気づきました。
今では、私にとって「ノート」とは、小さいサイズのメモ帳のようなものであったり、A4サイズの大判のものであったり、はたまたiPadのアプリのメモ帳であったりします。
そして、これらを「今日はきっとノートを使わないだろうなー」という日にも絶対に持っていってしまうんです。
例えば温泉旅行に行くとき(ワーケーションでもなく彼氏との旅行)や、実家への帰省時(絶対に飲み散らかしてて作業なんかしないのに)、またはちょっとしたカフェに出かけるときにも。(絶対荷物になってるだけやん)
でそれがもたらす効果として、結局どこかのタイミングで
「うわ!今嬉しかったなーメモりたいなー」
「さっきの嫌だったな悲しかったな、気持ちが落ち着かないからとりあえず書き出して整理したいな」
「突然将来のことが不安になってきた。なんとなく計画をしたいな」
というような気持ちの変化が起こる時がやってくるとき、いつでもノートがそばにあるということなんです。
「いやそれiPhoneでええやんけ」
もちろん、日記をiPhoneで書ける人はそれでいいんだと思います。
でも私はメモレベルならいいんですが、日記となるときちんと形に残して見直したいと思う派。
一番は手帳やノートのような紙に残るものが理想で、もしiPadに書いたものであったとしても1年単位で後で印刷したい。
なぜならふと本棚を見た時に、日記が手に取れて、
「あ、あの時の私こういう状態だったんだ。えらいな一応成長したんだな」
とかその時の気持ちを思い出したいから。
それにその時だけは他人と比較するわけじゃなく、自分と比較することができるじゃないですか。
この気持ちは、ちゃんと自分を自分軸で評価できる人にはなかなか理解できないかもしれないですけど、私のように自己肯定感が低い状態になっている人にとっては自分の成長って中々認めることができないんです。
「でも誰々の方が」「でもこれくらいのこと」
そういう気持ちがふと湧いてきて、これを消すことは中々難しい。
でも、日記を読んでいると、
「うわーこいつバカだなー」
「マジで痛いな、激痛だな」
と思うことが頻発します。(もちろん全部過去の自分)
もう読んでいたら成長を無理にでも実感せざるを得ないほど。笑
だから、ふとしたタイミングで目につく場所に置いて、見直すという行動を取りたいんですよね。
やっぱりiPhoneだと偶然目について見直すっていう行動を取りづらいですし、なんやかんやポンコツなのでケータイ壊したりしちゃうので不安なこともあります。(バックアップはもちろん定期的に取りません)
まとめると、
私が10年以上にもわたり「紙の」日記だけは続いている理由は、単純に生活の近くにノートがあるからな気がしているんですよね。
それに気づいてからはノート選びも楽しくなってきて、あえて女児心を取り戻すために「ハイジ」のノートを使ってみたりして見るたびに少し楽しくなったり。
で、大人になっても家に彼氏とか旦那がいて、万一にも見られたくないってあるじゃないですか。見られたら死んでまうような恥ずかしいこと、葬り去りたいような黒歴史。
でもそれだって書きたいわけです。
なんなら誰にも言えないことこそ、どこかに書いて成仏させてやらないと人生やっていけないって思うし、だからどん底のような自己肯定感でも、ノートだけは私のことを否定しないしっていう、全幅の信頼感があったからこそ続けてこれた気もするんですよね。
それは親や教師やこれまでの彼氏や友人には話せないことがあったっていう、孤独の証明でもあり、少し寂しいことでもあるかもしれない。
だけど、逃げずに自分と向き合ってきたという証拠でもあるかもしれない。
日記を愛して、ノートを愛すことはきっと、今まで受け入れがたかった過去の自分を丸ごと受け止めて、今の成長を受け入れるということなんじゃないでしょうか。
まぁでも死ぬ前に全部燃やしてやりますけどね。笑