【治承~文治の内乱 vol.44】武蔵国は鎌倉の生命線?
頼朝、葛西清重の館へ向かう
治承4年(1180年)11月10日(『吾妻鏡』)。
この日、小栗御厨を発った頼朝は下総国の武士・葛西清重の館に入りました。
ちなみに、西常陸の小栗御厨から下総の葛西清重の館まで来るのに使われたルートとしては、高橋修先生が再び常陸国府に戻って、鎌倉街道下道を西へ向かったとされ(※1)、木村茂光先生が下野国小山付近へ出て鎌倉街道中道から途中で南下して下総国へ入ったとされています(※2)。
なにぶん記録がないのでこの辺は憶測でしかないのですが、私は八田の地を流れる小貝川を下って、常陸と下総の国境付近に広がる内海へ出て下総国に入った可能性も考えられるのではないかと思っています。
ただ、当時河川などが重要な交通路として使われたであろうことは容易に想像できるんですが、その輸送力を考えると、果たしてどれだけの人や物を一度に運べるのか少し疑問が残るところです。
葛西清重の忠節
さて、清重の館ではその夜頼朝を歓待する宴会が行われました。
その際、清重は頼朝に喜んでもらうため、青女(未婚の若い女性)だと紹介した上で、自分の妻に頼朝の接待をさせたのです。
これは清重の頼朝への忠誠を示すものとして記された『吾妻鏡』の顕彰記事で、同時に清重が懸命に頼朝の信任を得ようとしていることもうかがわせているのですが、なぜそこまで清重は頼朝の信任を得ようとしていたのかわかりません。
それというのも、頼朝が房総半島から武蔵国へ入ろうとした際、頼朝は清重を「二心を抱く人物ではない」として未だに味方になっていない江戸重長の説得にあたらせており、すでにこの当時から清重は頼朝の信任を得ていたとうかがえるからです。
もっとも、頼朝が重長の説得を清重にあたらせた理由が他にもあったのはすでにお話しさせていただいたように(vol.29)、この部分だけで清重が頼朝の信任を得ていたと判断できないとしても、他にも、清重は同族(秩父平氏)である畠山氏・河越氏・江戸氏といった武士たちとは違って、頼朝に敵対せず、早い段階から気脈を通じていた(※3)とうかがえるため、この時の清重の頼朝への並々ならぬ忠節に違和感があります。
ともあれ、頼朝の信任を得た清重は改めて彼の所領である葛西御厨を安堵(保障)されるとともに、武蔵国丸子庄(※4)を新恩として賜りました。この丸子庄は関東地方で有数の大河川・多摩川の河口が間近にある土地でした。
頼朝の武蔵国へ対する施策
ところで、『吾妻鏡』の記事をみると、丸子庄を清重に与えたのを皮切りに、この治承4年(1180年)11月中旬から12月中旬にかけて、頼朝は矢継ぎ早に武蔵国への施策を連発させているのがわかります。
参考までに『吾妻鏡』の記事を書き出してみるとこんな感じです。
11月14日 土肥実平を武蔵国内の寺社に派遣。多くの者が清浄な地に乱入して狼藉をしているという訴えがあったため、ただちに狼藉を止めるよう命じるために向かった。
11月15日 武蔵国の威光寺(長尾寺)は源家数代にわたる祈祷所なので、院主の僧・増円が受け継いでいる僧坊や寺領に対して、今までのように年貢を免除した。
11月19日 (頼朝は)武蔵国の長尾寺(威光寺)を舎弟・禅師全成(幼名・今若丸。阿野全成)に譲渡し、この寺を全成に安堵(保障)した。先例の通りに祈祷に励むよう命じるため、寺に住んでいる僧、慈教坊増円・慈音坊観海・法乗坊弁朗らを召し出した。
12月14日 武蔵国の多くの住人に、元から領有していた土地への地主職(≒地頭職)は元のように執り行うように(頼朝から)命令が下された。北条時政と土肥実平が奉行(担当)となって、藤原邦通がその命令書(下文)を書いた。
これらの事は一体何を示しているのでしょうか。
この事について、木村茂光先生はまず頼朝が清重に葛西御厨と丸子庄の両庄を押えさせて、武総内海(中世の東京湾)沿岸地域と多摩川下流域、太日川(太井川とも ※5)下流域の監視を担わせ、これによって武蔵国南部の東と西の領域を画定すると同時に、その掌握を実現。さらに、関東支配の中心に武蔵国を据えてそこに「善政」を施すことで初期頼朝政権の権力基盤の構築に成功したとの見解を述べておられます(※6)。
私はこの武蔵国への施策の数々は、このほかに前回でも少し触れました上野国にいる源義仲を意識したものではないのかとも思います。
地図を用意しました。
葛西清重の本拠地・葛西御厨と新たに清重が与えられた丸子庄の位置を見ると、その両庄の間に武蔵国を代表する大河川が何本も内海(武総内海)に注いでいます。この立地から察するに、武蔵国内を流れる多摩川・入間川・荒川といった主要河川を押さえることで武蔵国の水上交通路の掌握をし、利根川や太日川といった北関東へ通じる河川を押さえることで北関東の水上交通の妨げになったと考えられます。つまり、これによって頼朝に従っていない北関東諸勢力に少なくない影響を与えて関東地方における頼朝の優位性を高め、ひいては義仲へのけん制に繋げたのではないでしょうか。
また、頼朝が武蔵国の多くの住人に対して本領安堵し、寺社勢力に保護を加えるという施策を行ったことは武蔵国を自身の勢力圏内の国としてより確実なものにしようとしたのではないのかと思えるのです。
かつて義仲の父・義賢は武蔵国最大の武士団秩父党の秩父重隆に迎えられて武蔵国をその勢力圏とし、頼朝の父である義朝や異母兄の義平に対抗しました。そうした由縁から義仲も武蔵国に勢力を及ぼそうと考えていた可能性があり、頼朝としてはここで義仲が武蔵国に勢力を扶植する隙を少しでも与えないために、念入りに武蔵国での「善政」を行ったのではないでしょうか。
(もっとも、畠山・河越・江戸といった秩父党はじめ武蔵国の多くの中小武士団はこの時すでに頼朝の傘下になっていたので、義仲がつけ入る隙はほとんどなかったかもしれませんが...)
とは言え、これらはなにぶんの状況把握による推察なので、実際に頼朝や義仲がそう考えていたのかはわかりません。しかし、この時期の頼朝による武蔵国への度重なる施策の多さは注目すべきものがあります。