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【北条宗時】 北条義時の兄
今回の人物紹介は北条宗時を紹介したいと思います。
とは言っても、宗時に関してお話しできることが少ないので、彼のお墓についてや討死した場所についてのお話しがメインになります。
良かったらお付き合いくださいませ。
北条宗時について
北条宗時は北条時政の子で、北条政子や義時とは兄弟です。三郎という仮名から三男と考えられ、義時(仮名は四郎または小四郎)の兄とされていますが、正確なことはわかっていません。
ちなみに、「宗時」の「宗」は継母・牧の方の父(兄とも)である牧(大岡)宗親の偏諱(※1)をもらった可能性があると指摘されています(※2)。また、このことに関連して、野口実先生は杉橋隆夫先生による牧氏の評価(※3)をふまえ、北条氏の京都との関わりから牧氏との繋がりも指摘(※4)されていることから、頼朝挙兵前の北条氏について従来の小豪族という見方とは違った視点を提供されています。
さて、この宗時は石橋山の戦いで敗れて逃亡した際、敵対する大庭方の落武者狩りに遭ってその最期を迎えているのですが、実はその最期の地もよくわかっていません。
現在伝わる宗時の墓は石橋山(神奈川県小田原市)よりやや離れた伊豆の函南(静岡県田方郡函南町)にあります。これを普通に考えれば、宗時が石橋山から函南あたりまで落ち延びてきて討ち取られたものと想定できるのですが、宗時の最期を記述する『吾妻鏡』や『源平盛衰記』を見てみると、討ち取られた場所と伝わるお墓の場所は一緒ではなかったようにも思えるのです。
ということで、順次『吾妻鏡』や『源平盛衰記』の宗時最期の記述を挙げてもう少し詳しくお話ししたいと思います。
『吾妻鏡』に記される宗時の最期
まず『吾妻鏡』治承4年8月24日条(部分)から。
”また北条殿(時政)と四郎主(義時)らは、箱根湯坂を経て甲斐国へ赴こうとした。三郎(宗時)は土肥山から桑原に下り、平井郷を経たところ、早河のあたりにおいて、祐親法師(伊東祐親)の兵に囲まれ、小平井の名主・紀六久重に射取られてしまった。”
(読み下し)又北条殿、同じき四郎主等は、箱根湯坂を経て、甲斐国に赴かんと欲す。同じき三郎は、土肥山より桒原に降り、平井郷を経る処、早河辺に於いて、祐親法師の軍兵に囲まれ、小平井の名主紀六久重の為に射取られ訖んぬ
宗時の討たれた時のことをうかがうには、やはり『吾妻鏡』が一番情報を提供しています。これでわかるのは、
宗時を討ったのは伊東祐親の軍勢にいた小平井の名主で紀六久重という人物
宗時は時政や義時と別行動をとっていた
宗時は土肥山から桑原に下り、平井郷を経たところ、早河のあたりで討たれた
ということなんですが、ここでは討たれた場所にしぼってお話ししますと、4つの地名が登場します。「土肥山」「桒原(桑原)」「平井郷」「早河」の4つです。
このうち、「桒原(桑原)」と「平井郷(平井)」は函南町内に地名があり、宗時のお墓の所在地に近いです。しかし、「土肥山」と「早河」に関しては、現在の函南町内にその地名が見当たらず、どこを指したものかがわかりません。
そこで江戸・明治期の伊豆の郷土史家や『函南町誌』では「土肥山」を日金山(十国峠)であるとし、「早河」は函南町内を流れる冷川(函南冷川)として、宗時はこのお墓がある場所付近(函南町内)で討たれて葬られたとしています(※5)。
『函南町誌』が述べるように、平安末期には平井ー桑原ー田代ー日金山(十国峠)というルートが箱根権現(箱根神社)や走湯権現(伊豆山神社)、相模国方面へ通じる主要道であり、宗時もこの道を利用した可能性が高いことは、実際にそのルートに高源寺や東光寺といった平安末期には存在したと考えられる寺院が今も残っていることから理解できます。
しかし、日金山を土肥山、冷川を早河とも言った傍証が他に得られなければ、函南町内で宗時が討たれたことにする単なる辻褄合わせではないかという感じもいたします。
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登場した地名の検索
『日本歴史地名大系』と『角川日本地名大辞典』の「静岡県」「神奈川県」の両巻で「日金山」「冷川」「土肥山」「桑原(桒原)」「早川」「平井(平井郷)」を検索してみました。
しかし、これといった有力な情報はなく、「日金山」を「土肥山」とも言ったことは記されておらず、「冷川」の記載はありませんでした。
「早河」は鎌倉末期に「早川宿」という宿駅が伊豆国内にあったことが記されており、元弘2年(1332年)に平成輔という人物がその宿駅で斬罪に処されたと『尊卑分脉』(洞院公定が編纂した系図集)にあるということですが、その宿駅の位置や宿駅が平安末期にもあったのかなどの詳細についてはわからず全く見当がつきません(角川日本地名大辞典「静岡県」)。
「桑原」は神奈川県小田原市にもその地名があり、平安末期に桑原郷があったことが知られていますが、その桑原は酒匂川東岸に位置して石橋山からかなり離れており、『吾妻鏡』にある「土肥山から桑原に降り」という記述を重視するなら、その記述にも全く合わない場所です。
「平井(平井郷)」は神奈川県にもあったらしく、今の小田原市南部から真鶴町・湯河原町にかけての地域にあったと推測されるとの記述がありました(角川地名大辞典「神奈川県」)。
やはり「土肥山」「早河」という地名で連想されるのは、相模国の土肥郷(神奈川県湯河原町)と早川(小田原市)になろうかと思います。両所ともに石橋山に近く、こちらはこちらで宗時が討たれた場所として違和感はないのです。
そこで『源平盛衰記』の宗時が討死した場面を書き出してみます。
『源平盛衰記』に記される宗時の最期
“北条次郎宗時は波打ち際を馬に歩ませて落ち延びていたが、伊豆五郎助久は宗時と駈け並んで取っ組み合い、二人とも馬から落ちた。両虎(宗時と助久)は戦って相討ちとなり、名を後世に留めた。”
北条次郎宗時は波打ち際を歩ませ落ちけるを、伊豆五郎助久、駈け並べて取組んで落ちにけり。両虎相戦ひて互(たがひ)に命を亡ぼし、名を留めけり。
この記述で引っ掛かるのは、「波打ち際を歩ませ落ちけるを」の部分です。
函南町は前掲の地図を見ていただければわかりますが、海はありません。となると、やはり宗時は石橋山近くで討死したのではないかと思わせるのです。
ただ、宗時と相討ちになったという伊豆五郎助久なる人物が何者なのかがわかりません。『吾妻鏡』では宗時を討ったのは、前述のように平井紀六久重で、養和1年(1181年/治承5年)1月6日条にも平井紀六久重が宗時を討ったことを認めたとあり、同年4月19日条には宗時を討った罪は重いとしてさらし首になったと記されています。
ところが、『源平盛衰記』には平井紀六久重は登場しません。同じ「平井」でも甲斐国の平井義直(※7)なる人物が登場していますが、義直は新田(仁田?)忠俊(※8)と戦って相討ちになっており、宗時の最期には直接関わっていません。
このように、『吾妻鏡』と『源平盛衰記』とでは宗時の最期についての記述が大きく異なるのです。
では、結局宗時の最期の地はどこ?ってことになるんですが、その続きをお話しする前に、宗時の墓についてもう少し詳しく話してみたいと思います。
宗時の墓について
JR東海道線の函南駅から西に500mほどのところに宗時のものと伝わるお墓はあります。
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このお墓の被葬者が確実に宗時であるかはわかりませんが、『吾妻鏡』建仁2年(1202年)6月1日条にここが宗時の墓であることをうかがわせる記述があります。
“一日甲戌。晴れ。遠州(時政のこと)は伊豆国北条に下向なさった。夢の中でお告げがあったとのことで、亡き息子北條三郎宗時の菩提を追善供養するためで、彼の墳墓堂は当国(伊豆国)桑原郷にあるからである。”
(読み下し)一日甲戌。晴。遠州伊豆国北條に下向せしめ給ふ。夢想の告げあるに依りて、亡息北條三郎宗時の菩提を訪ひ給はんが為なり。彼の墳墓堂、当国桒原郷に在るの故なり。)
この記事は宗時の父である時政が建仁2年(1202年)の6月に宗時の墓参りをしたことを記したものですが、これで宗時の墓は伊豆国桑原郷にあったことがわかるのです。
現在、宗時の墓の所在地の地名は函南町大竹ですが、この当時はここも桑原郷の内だったのかもしれません。ちなみに、この宗時の墓直下には伊豆箱根バスの「桑原口」というバス停がありました。
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また、この宗時の墓と伝わる墓にはもう一つの謎がありまして、宗時と同じ石橋山の戦いにおいて敗死した工藤(狩野)茂光が一緒に葬られているのです(※9)。
『吾妻鏡』や『平家物語』を覗いてみる限りでは宗時と茂光は石橋山周辺で討たれたとはいえ、それぞれ違う場所で亡くなったと思われるのにもかかわらずです。
これは一体どういうことなのでしょう?
実は桑原に隣接する地域は田代という地域で(地図参照)、そこには田代信綱が築いたと伝わる田代城址(※10)があります。
田代信綱と言えば、工藤茂光の外孫(伊豆守・源為綱と茂光の娘との子 ※11)とされ、茂光が逃亡困難で自害する際には信綱が介錯をしたと『平家物語(延慶本)』などで語られる人物です。
田代信綱の所領は茂光の所領である狩野庄(伊豆市牧之郷付近)内の狩野庄田代郷(伊豆市田代)とされていますが、『豆州志稿』にはそこから函南町の田代へ移り住んだとの記述が見られ(※12)、信綱の所領だった可能性があるのです。
そこで考えられるのは、信綱が自身の所領内に祖父・茂光と宗時を一緒に葬ったのではないかということです。
信綱がどのような経緯で宗時の亡骸を発見できたのかは史料も証拠もなく判然としませんが、宗時と茂光が一緒に葬られていることが事実とすれば、両者を弔った人物が田代信綱だったとしても、なにもおかしいことはないのです。
ただし、この仮説はこのままでは成り立ちません。少なくても宗時の墓がある場所が田代信綱の所領内だった証拠がなければなりませんが、残念ながらその確認は取れませんでした。
宗時のお墓の場所が討死した場所ではない?
ここで話を宗時が討たれた場所について戻します。
先ほどもお話ししたように、宗時と茂光が一緒に葬られているのが事実ならば、やはり墓のある場所が討たれた場所ではなく、何者かが函南の地に葬ったと考える方が自然だと思われます。
しかし、なぜ葬られたのが函南の地だったのか、宗時と茂光を一緒に葬ったのは一体誰なのか、といった疑問は解決できません。
葬った人物として考えられるのは茂光の最期に居合わせた田代信綱、または宗時を討った、お墓の所在地に程近い(小)平井郷を本拠にしていたと思われる紀六久重あたりが浮かびますが、現状それを証明する史料や証拠はありません。
余談ですが、宗時の墓にある石塔は小高い丘の中腹にあって、そこから中伊豆の大仁・韮山方面が眺望できることから、まるで宗時が生まれ故郷(韮山)を望んでいるかのように立てられています。
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葬った人物はわざとそのような立地に墓を築いたというのでしょうか・・・。
おわりに
以上、宗時の墓と討死した場所についてお話ししてきましたが、いかがでしたでしょうか。
これまでお話ししたように、私は宗時の墓のある場所と討死した場所は違うと考えますが、伊豆の郷土史家や『函南町誌』が述べるようにほぼ同一の場所だとする見解もあります。
もし、今回の話で興味を持ってくださいましたなら、頼朝挙兵前の北条氏についても合わせて、ご自身でお調べになられるのも良いかもしれませんね。
それでは、最後までお読みくださってありがとうございました。
追記:宗時の墓(宗時神社)は地元の人に「ときまつさん」「ときまっつぁん」と呼ばれているそうです。なんでも時政の墓と勘違いされて呼ばれ続けているとか・・・。
地元の伝承は根拠のないものも多く、なんの証明にもならないかもしれませんが、北条とは直接関係のないはずの函南に北条に関係した伝承があること自体、ここが宗時の墓である可能性を高めているのではないでしょうか。
(注)
※1・・・へんき。貴人の諱で使われる文字の内の一字を指します。元服する際に烏帽子親の諱の一字(偏諱)を烏帽子子(元服する人)がもらうことがありました。これを「偏諱を賜う」といいます。
※2・・・細川重男『北条氏と鎌倉幕府』講談社選書メチエ493 講談社 2011年 p.35~36
※3・・・杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置」(上横手雅敬監修『古代・中世の政治と文化』思文閣出版 1994年 所収)
※4・・・野口実「伊豆北条氏の周辺ー時政を評価するための覚書ー」(京都女子大学宗教・文化研究所 編『研究紀要(20)』2007年 所収)
※5・・・『豆州志稿』「巻之六 川渓」の「冷川」の項目には“源、田代村山中ヨリ出テ、桑原ノ南ヲ過グ。東鑑ニ出ル早川ナリ。ハヤ(早)ハヒエ(冷)ノ転語、乃チ北條宗時戦死ノ処”という記述があります。『豆州志稿』は寛政12年(1800年)に秋山富南が若年寄・堀田正敦、勘定奉行・中川忠英、韮山代官・江川英毅の支援を受けて編纂した伊豆一国の地誌です。
※6・・・この地図は国土地理院が発行した現行の「色別標高図」と「陰影起伏図」をベースに、道は明治31年に発行された地図を参考に引かせてもらいましたので、平安末期~鎌倉にかけて存在したルートとは違う可能性がありますことをご了承ください。
※7・・・『源平盛衰記』に「甲斐国の住人平井冠者義直」として登場する人物です。『山槐記』の治承4年9月7日条には石橋山の戦いで討たれた大庭方の人物の中に“甲斐国平井冠者”とあり、同一人物と考えられます。また、これは甲斐源氏を出自とする平井氏(『尊卑分脉』では安井)であるとしているものがありますが、これには検討が必要です。
※8・・・新田(仁田?)忠俊は『源平盛衰記』に登場する人物で『吾妻鏡』や『延慶本平家物語』には登場しません。一説には仁田忠常の兄とされ、石橋山の戦いの際に真鶴で討死したとされているようですが、その説の根拠は確認できませんでした。
※9・・・『豆州志稿』「巻之十二 墳墓」の「工藤介茂光墓」の項目に”源平盛衰記ニ見ユ澤六郎宗家モ是ノ日戦死ス。故ニ或ハ以テ宗家ノ墓トス”とあり、宗時と一緒に葬られているのは、工藤茂光ではなく、石橋山の戦いで頼朝方にて参戦し討死した沢六郎宗家である可能性を記しています。
※10・・・『豆州志稿』では「田代冠者信綱砦」とされ、田代城があった場所は城山、御屋敷、御殿などと名づけられた田んぼがあると記してここに城館があった名残を伝えています。
※11・・・田代信綱の父親は明らかではなく諸説あります。安田元久編『鎌倉・室町人物事典』(新人物往来社、1990年)には、“後三条天皇第三皇子輔仁親王から五代の孫と伝えられ、父は伊豆守源為綱または為綱の子為経ともいわれるが世系は定かでない”とあります。
※12・・・『豆州志稿』「巻之二 村里」の「田代村」の項目に”冠者源信綱、狩野ノ田代ニ居リ、後此ニ来タリ住ス。以テ村名トス”とあります。
(参考)
函南町誌編集委員会 編 『函南町誌』上巻 函南町 1974年
静岡県田方郡役所 編 『静岡縣田方郡誌』 千秋社 1995年(大正7年〔1918年〕刊の複製)
秋山富南 著・高橋廣明 監修 『豆州志稿』復刻版 羽衣出版 2003年
杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置」(上横手雅敬監修『古代・中世の政治と文化』思文閣出版 1994年 所収)
野口実「伊豆北条氏の周辺ー時政を評価するための覚書ー」(京都女子大学宗教・文化研究所 編『研究紀要(20)』2007年 所収)
細川重男 『北条氏と鎌倉幕府』講談社選書メチエ493 講談社 2011年
水原 一 考定 『新定 源平盛衰記』第三巻 新人物往来社 1989年