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【治承~文治の内乱 vol.38】 実際の富士川の戦い(後半)

はじめに


前回は実際の富士川の戦いの様子を探るべく京都の公家の日記を参考にお話ししましたが、今回は富士川の戦いが行われた場所をふまえて『吾妻鏡』の記述の虚実についてお話しすることで、実際の富士川の戦いはどのようであったのか探ってみたいと思います。


富士川の戦いの行われた場所

富士川の戦いの場所は現在の富士川の流路付近で行われたと解釈されがちですが、実はそれより5、6kmほど東だった可能性があります。

この当時の富士川は現在と違って、河口付近で大きなデルタ地帯を形成していたものと思われ、今も静岡県富士市西部地区にはかなりの数の“島”がつく地名があります(加島かしま中島なかじま川成島かわなりじま柳島やなぎしま鮫島さめじま森島もりじま五味島ごみじま宮島みやじま五貫島ごかんじま高島たかしま水戸島みとじま瓜島うりじま高島たかしま青島あおしま荒田島あらたじまなど)。これらの地名はもともと富士川や富士川水系の潤井川うるいがわの中洲であった名残と考えられます。

阿仏尼あぶつに(?~弘安6年〔1283年〕)の『十六夜いざよい日記』にも、

明けはなれて後、富士河を渡る。朝川いと寒し。かぞふれば十五瀬をぞ渡りぬる
(すっかり夜が明けてのち、富士川を渡った。朝の川は大変寒い。数えてみれば十五瀬を渡った)

とあり、富士川を渡るのにいくつもの瀬を通ったことがわかります(※)。

※・・・十五瀬については、阿仏尼が京都を出発して以来、十五の川を渡ったとする解釈もあります。

そして、富士市内には富士川の戦いにちなむ旧跡がいくつかありまして、代表的なものとしては富士市吉原にある「平家越え」と「和田義盛神社」が挙げられます。

富士川の戦いが行われた場所について
(字が小さくてごめんなさい。拡大してご覧ください)

「平家越え」は源氏方が平家方の陣営を越えたとされる場所で、「和田義盛神社」は和田義盛が陣を張った場所とされ、地図で示すと両所とも現在の富士川より東方にあったことがわかります。他にも富士市内には富士川の戦いにちなむ旧跡がありますが、それらはすべて現在の富士川より東方に位置します。参考までに富士市のHPにある旧跡のリンク貼っておきます。

また、『吾妻鏡』には富士川の戦いにおいて平家方の武士・印東常義いんとうつねよしが源氏方に討ち取られたとしていますが、その場所とされる鮫島さめじまも現在の富士川の流路より東です。

もっとも、「平家越え」や「和田義盛神社」といった富士市内の旧跡はどれも史料的に裏づけされているわけではないようですが、これらの場所に源氏方や平家方が布陣したと見て『吾妻鏡』の富士川の戦いについて記された部分を改めて見てみます。

(『吾妻鏡』治承4年〔1180年〕10月20日条より)
頼朝は駿河国加島にご到着された。また左少将維盛、薩摩守忠度、三河守知度らは富士川の西岸に陣した。そして夜中になり、武田太郎信義は兵略をめぐらせて、ひそかに平家軍の背後を襲ったところ、富士沼に集まっていた水鳥がいっせいに飛び立った。その羽音はまるで軍勢が押し寄せてきたかのようだった。

(読み下し)武衛ぶえ駿河国賀嶋かしまに到らしめ給ふ。また左少将惟盛、薩摩守忠度、参河守知度等、富士河西岸に陣す。しかして半更に及び、武田太郎信義、兵略を廻らし、ひそかに件の陣の後面を襲ふの処、富士沼に集まる所の水鳥等群立す。その羽音ひとへに軍勢のよそほひを成す。

『吾妻鏡』治承四年十月二十日条より

この中にある「富士沼」というのは浮島沼うきしまぬまとも呼ばれ、現在の静岡県富士市東部から沼津市西部にかけての愛鷹あしたか連峰南麓に広がる大湿地帯でした。現在は干拓が進んで田んぼが広がっていたり、工業地域となったりしていますが、大雨が降ったりすると冠水しやすく、今も所々で小規模な湿地(沼)を見ることができます。

地図をご覧いただければわかりますが、この富士沼も現在の富士川より東にあり、先述の「平家越え」「和田義盛神社」付近での戦いであったなら位置的に辻褄が合います。


富士川の戦いは平家v.s.甲斐源氏の戦いだった?

先ほど挙げた『吾妻鏡』の記述にはもう一点不可解な部分があります。それは“武衛駿河国賀嶋に到らしめ給ふ”という一文です。

また地図をご覧いただくとわかりますが、この駿河国賀嶋は現在の富士市加島付近と比定されていますので、さきほどの甲斐源氏軍・平家軍それぞれの位置関係と照らしてみると、平家の後方に頼朝本陣があることになってしまい、頼朝の本陣後方で甲斐源氏が平家軍に奇襲をかけようとしていたことになってしまうのです。

これについては『吾妻鏡』の編集者が富士川の戦いを「頼朝主導の戦い」としたいがために、その内容に手を加えた結果、地理的な矛盾を生じさせてしまったとの指摘がなされており(※1)、富士川の戦いで主体的に動いたのはこの当時はまだ頼朝と対等の立場であった甲斐源氏軍だとされています(※2)。

先日挙げました九条兼実『玉葉』の中でも東国追討使(平家本軍)へ宣戦布告の使者を送ったのは武田方(甲斐源氏)としていますので、富士川の戦いは平家と甲斐源氏との戦いであって、鎌倉源氏軍(頼朝軍)は甲斐源氏軍の援軍(後詰め)のような立ち位置だったのでしょう。先遣隊として和田義盛わだよしもりが甲斐源氏と行動を共にしたかもしれませんが、頼朝勢本隊は黄瀬川宿きせがわのしゅく(沼津市大岡及び駿東郡清水町長沢付近)に本陣を構えて、戦の推移を見守っていたものと思われます。

『吾妻鏡』の記述はこのように曲筆を施したと思われる箇所が多々あり、頼朝を中心に物事が動いているような書き方をしますので、その記述を鵜呑みにすることは禁物です。

ちなみに、甲斐源氏軍は黄瀬川宿にいる頼朝と一旦合流したあとUターンする形で平家軍(東国追討使)と対峙したと『吾妻鏡』はしていますが、それも改めて考えて見ると変な話です。

実際に甲斐源氏軍が布陣したと考えられる富士沼西岸、「平家越え」「和田義盛神社」付近は甲斐国から南下する春田道はるたみちが駿河国の平野部に出、根方ねがた街道(至・黄瀬川宿方面)や十里木じゅうりぎ道(古東海道)との結節点でもありますので、甲斐源氏軍は戦前に黄瀬川の頼朝とは合流せず、甲斐から南下してそのまま平家軍(東国追討使)と対峙したと考えた方が自然なのです。


ということで今回はここまでです。
今回は富士川の戦いにちなむ旧跡の位置を『吾妻鏡』の記述に照らしてみて、戦いが行われた場所を探ってみました。

今回話の中心に据えた富士川の戦いにちなむ旧跡は伝聞や地元の言い伝えによるもののため、史料で裏付けができずに戦いの行われた場所を断定するには至りませんし、史学的にはNOだと思います。しかし、これら旧跡の背景にある地元の伝承を単に後世付会のものと決めつけて排除してしまうのもいけないことですし、あえてこれらを考慮に入れることもまた大事なことなんだと思います。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。

註)
※1…上杉和彦 『戦争の日本史6 源平の争乱』 吉川弘文館 2007年
※2…上杉和彦 前傾同書 及び 川合 康 『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』 吉川弘文館 2009年

(参考)
上杉和彦 『戦争の日本史6 源平の争乱』 吉川弘文館 2007年
川合 康 『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』 吉川弘文館 2009年
五味文彦・本郷和人編 『現代語訳 吾妻鏡 1頼朝の挙兵』 吉川弘文館 2007年
関幸彦・野口実編 『吾妻鏡必携』 吉川弘文館 2008年
石井進 『日本の歴史7 鎌倉幕府』 中央公論社 1965年
黒板勝美編 『新訂増補 国史大系 (普及版) 吾妻鏡 第一』 吉川弘文館 1968年
岩佐美代子 校注・訳 『十六夜日記』(新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集) 小学館 1994年
遠藤喜三郎 『静岡縣富士郡誌』 富士郡役所 1914年

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およまる
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