【治承~文治の内乱 vol.35】 甲斐源氏勢と頼朝勢、駿河国へ出陣
今回は富士川の戦いに至るまでの源氏側の動きを『吾妻鏡』に拠ってお話ししたいと思います。
頼朝、地歩を固めながら西進
治承4年(1180年)10月16日(『吾妻鏡』)。
この日、頼朝は東国追討使(平家本軍)を迎撃するために駿河国へと出陣しました。頼朝がやっとのことで鎌倉に入ることができたのが10月6日とされていますので、わずか10日後に出陣したことになります。
頼朝は駿河国に向けて鎌倉を西進するにあたって、何よりもしなければならないのは、伊豆・相模両国の地固めと大庭景親をはじめとする石橋山で頼朝に敵対した勢力の対処です。
敵対した者の中にはすでに頼朝の陣営に加わっている者もいましたが、大将格の景親はもちろん、伊東祐親、河村義秀、波多野義常、長尾新五〔為宗〕・新六〔定景〕といった者たちはまだ頼朝に帰順していませんでした。
16日夜、頼朝は相模国府の六所宮(神奈川県中郡大磯町国府本郷にある六所神社)に到着。箱根権現(箱根神社)に相模国早川庄を寄進する旨の書状を送りました。これはこれまでの協力に報いたものであると同時に、来たるべき平家本軍との戦いの戦勝祈願を込めたものであったと思われます。
また、箱根権現と並んで頼朝に協力的だった走湯権現(伊豆山神社)には、かねてより頼朝は土地を寄進していましたが、この度、伊豆山領内では多くの軍兵が往来して、それらの中には狼藉騒ぎまで起こしている者がいるために困っている旨を訴えてきていました。
なぜ軍兵が伊豆山領内に多く流入してきているのか定かではありませんが、来たるべき東国追討使(平家本軍)と源氏方との戦にともなって、源氏方へ加わろうとする者、平家方へ加わろうとする者など様々な人の移動があったものと思われます。
これに対し、頼朝は伊豆山宛てに領土の保障を約束し、直ちに狼藉を止めるように触れを出しました。このように頼朝は西へ進軍しながら確実にその地歩を固めていったのです。
進退窮まる景親
翌10月17日、頼朝は下河辺行平を将とする分遣隊を波多野義常討伐に向かわせます。ところが波多野義常は討伐隊が到着する前に自らの所領である松田郷(神奈川県秦野市)において自害し、敢えない最期を遂げてしまいます。
ちなみに、義常の子息である有常はこの時、頼朝陣営の大庭景義(景親の兄ですが、当初から頼朝方)のもとにいたためにこの難を逃れており、景義の外甥ということもあって助命され(のちに有常は奥州合戦の功で松田郷を再び与えられ、松田氏を名乗ります)、義常の弟である忠綱はのちに鎌倉政権に仕えて活躍、義常の叔父にあたる義景も生き残って、波多野庄を相続することで波多野氏自体は存続していきます。
さて、肝心の大庭景親は頼朝の西進から逃れるように、すでに本拠地である大庭御厨を退去していて、1000余騎の軍勢で平家軍に合流しようと足柄峠を越えて駿河国へと向かおうとしました。しかし、すでに源氏勢が足柄峠を越えていて、行く手を阻まれていたため(※1)、やむなく河村義秀の拠点近くの河村山(場所不明です。河村城址〔神奈川県足柄上郡山北町〕あたり?)に籠もってなりを潜めました。
甲斐源氏勢、鉢田の戦いのあと頼朝勢と合流
10月18日夜。頼朝は駿河国黄瀬川宿(今の静岡県沼津市大岡付近)に到着し、ここで甲斐国から南下してきた甲斐源氏軍と合流します。
そして、石橋山の戦い以来、甲斐源氏のもとに亡命していた北条時政・義時父子や加藤光員・景廉兄弟といった者たちとの再会を果たします。
この甲斐源氏軍はこれより4日前の10月14日、駿河国目代・橘遠茂、長田入道らの軍勢と富士の北麓にて合戦に及んで勝利を収めており、その後富士の南麓を東進して黄瀬川までやってきたことになっています。
この甲斐源氏と橘・長田連合軍との戦いは、鉢田の戦いと呼ばれ、富士川の戦いの前哨戦と位置付けられています。
もう少し詳しくお話ししますと、武田信義、一条忠頼、板垣兼信、武田有義、石和信光(のちの武田信光)、逸見光長、安田義定、河内義長といった甲斐源氏の面々は東国追討使(平家本軍)が迫ってきていることを受けて、甲斐国から駿河国へ向けて南下。若彦路を通って13日夕刻には富士五湖の一つ・河口湖にほど近い大石宿(山梨県南都留郡富士河口湖町大石)に到着し、そこで宿営します。
すると戌の刻(19:00~21:00)、駿河国目代・橘遠茂と長田入道が富士野(富士山南西麓、今の静岡県富士宮市一帯)を回って甲斐方面へ進軍中との報がもたらされます。そこで甲斐源氏の面々は軍議を開き、その橘・長田連合軍を南下途中で迎撃することを決定。翌14日に神野、春田道を経た鉢田という場所で会敵し、交戦します。
ちなみに、この鉢田という場所は不明でして、以前橘遠茂と安田義定らが戦った波志田山と同じとする説もありますが(※2)、『吾妻鏡』に“境は山峯連なり、道は磐石峙つ間、前に進むを得ず、後に退くを得ず”とあり、地形が複雑でかなり足場が悪い場所であったことがうかがえます。今現在富士山北麓から南西麓にかけてそのような起伏の激しい地形で岩がゴツゴツし、進退窮まるような土地を想定させる場所は山梨・静岡両県にまたがる青木ヶ原樹海ですが、他にもそうした場所があったかもしれず、定かではありません。しかし、『吾妻鏡』にある甲斐源氏軍のその後の行程を見ると、やはり青木ヶ原樹海付近での戦いだった可能性は高そうです。
さて、この鉢田の戦いは甲斐源氏軍の石和信光や加藤景廉らによる先陣をきっての奮戦もあって源氏方の勝利に終わり、一方の橘・長田連合軍は多くの者が死傷して、将である長田入道とその子息が討死、橘遠茂も捕らえられるという大損害を被り大敗しました。そして14日夜、甲斐源氏軍は伊堤(現在の静岡県富士宮市上井出付近と比定されています)に陣を取り、この度の鉢田の戦いにおける首実検をしています。
伊東祐親の捕縛
10月19日。伊東祐親が南伊豆の鯉名浜(今の静岡県賀茂郡南伊豆町にある弓ヶ浜)から平家本軍に合流しようと船出しようとするところを頼朝方の天野遠景に発見され、ついに捕らえられました。そして、間もなく頼朝の前にひき据えられます。この祐親と頼朝の間には浅からぬ因縁があったと言われ(八重姫の一件など)、直ちに死罪になってもおかしくはありませんが、三浦党の総帥・三浦義澄が祐親の身柄を一旦引き受けたいという希望もあって、処分保留で義澄のもとに預けられました。義澄にとって祐親は舅にあたる人物であったと『吾妻鏡』は記しています。
また、伊東祐親の次男とされる祐清(『吾妻鏡』には祐泰とありますが、これは誤りと思われます)も捕らえられましたが、この祐清はかつて頼朝が祐親に命を狙われた際に、事前に父親の計画を頼朝へ知らせて難を遁れさせたことがあり、これを恩に感じる頼朝は彼に恩賞を授けようとしました。ところが祐清は、
「父・祐親が(頼朝の)御怨敵として囚人となっているのに、どうしてその息子が賞を賜ることができましょうか。早く解放していただきたい。平家のもとに向かうために上洛いたしますゆえ」
と述べて、恩賞を断った上であくまで頼朝には味方しなかったのです。当時の人々はこれを美談として祐清の姿勢を讃えたようで、頼朝も祐清の望み通り解放したようです。
平家本隊と対峙
10月20日。頼朝は駿河国富士郡の賀島(今の静岡県富士市加島付近)に到着。一方の東国追討使(平家本軍)も富士川西岸に陣を取って、ついに両軍が富士川を挟んで東西に対峙する形となりました。
と、いうことで今回は『吾妻鏡』に従って富士川の戦いに至るまでの源氏方の動きをお話しさせていただきましたが、『吾妻鏡』の富士川の戦い前後の記述は例の鎌倉(頼朝)中心主義による信憑性に欠けるものである可能性が高いことをお断りさせていただきます。
(ここまで話しておいて最後にそれ言う!?って感じですよね。笑)
具体的にどのあたりの記述が怪しいのかはまた改めてお話しさせていただこうと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。