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【治承~文治の内乱 vol.12】 福原遷都

遷都

以仁王もちひとおうの乱が鎮圧されて間もない治承じしょう4年(1180年)6月2日。
平清盛は摂津国せっつのくに福原(現在の兵庫県神戸市兵庫区・長田区一帯)へ移りました。この福原という場所には福原庄という庄園がありましたが、当時主要貿易港の一つであった大輪田泊おおわだのとまりが近くに位置して、日宋にっそう貿易の一大拠点としてかねてより平家一門の邸宅も散在している、いわば平家にとって第二の本拠地と言える土地でした。

この頃清盛は福原に住んで何か重要な事案があると京都へ来、用件が済めば福原に戻るという具合で、清盛が福原に移ること自体は別にめずらしいことではありませんでしたが、今回はいつもと様子が違ったのです。

清盛は高倉上皇たかくらじょうこう安徳天皇あんとくてんのう後白河法皇ごしらかわほうおうを伴って「行幸ぎょうこう」という形をとり、さらに親平家の立場を取る貴族や平家一門も共に福原へ移ったのです。いつもより大々的だったのはいうまでもありません。そしてほどなくこれが単なる「行幸」ではなく、「遷都せんと」であることが示されました。これが後世にいわれる「福原遷都」です。

この行幸については右大臣・藤原兼実かねざねも行幸直前の5月30日に知り、6月3日に行幸出発ということであったのが、すぐさま1日前倒しして6月2日出発に変更となるなど、かなり性急なできごとだったようです(『玉葉』)。まして、これが遷都であるとなれば兼実たちは仰天せざるを得なかったことでしょう。つまり、清盛は遷都に反対するだろう公卿たちに口を挟ませる余地を与えることなく、電撃的に遷都を敢行してしまったことになります。


福原遷都の理由

清盛が福原遷都を敢行した理由として様々な意見がありますが、主に2つの理由が考えられています。

一つ目は旧来からの寺社勢力と距離を置きたいため。

今回の以仁王の乱のように、もし反平家勢力が京都周辺の有力寺社(延暦寺・園城寺・興福寺・東大寺など)と結託した場合、これまでのように京都(六波羅・西八条)に本拠を置いたのでは簡単に包囲網を形成されてしまい、非常に防衛しづらくなってしまうのが欠点でした。以仁王の乱は反平家勢力と寺社勢力との連携がうまくいかなかったこともあり、大事に至らずに済みましたが、いつまた同じようなことが起きるかもしれません。そこで清盛は京都から出ることを考えたというわけです。

しかし、そうかといって皇族を京都に残したままでは自らの正統性が失われてしまうため、天皇や上皇も福原へ移して自分の手許に置いておくことで政治を動かす正統性が得られ、軍勢を催すにしても官軍(正規軍)としてのお墨付きがすぐに得ることができます。要するに平家は京都(平安京)からの遷都という形で寺社勢力と地理的距離を置くことを図ったのです。

二つ目は、平家主導の高倉院政が新たなる王権であることを目に見える形で示すため。

かつて奈良(平城京)から京都(長岡京・平安京)へと遷都した桓武かんむ天皇は、これまで続いていた天武てんむ天皇の皇統から自らの皇統である天智てんぢ天皇の皇統へ変わったことにより、新しくリセットする意味合いを含めて都を遷したとも言われています(※1)。
清盛がこのことを念頭に置いていたか定かではありませんが、平氏系の天皇である安徳天皇が即位した今、この安徳天皇から続くであろう新しい皇統の新しい都として、この福原京遷都を考えたというのです。

この時、清盛63歳。この当時ではかなりの高齢です。自分の余命もあとどれくらいなのかわからない中、何としてもこの福原京構想を完成させ、平家の血が入った安徳天皇の皇統が続く道筋をつけたかったのでしょう。このような急な遷都となった背景にはそんな清盛の焦りがあったのかもしれません。


福原京

平家は福原にて装いも新たに平家主導の高倉院政をスタートしたいところでしたが、根本的な大問題がありました。それは肝心要の都が完成していないのです。いや、完成していないどころか都の場所すら決定されていなかったのです。

それは福原の平地が少ないために、京都の平安京と同じような形で都が作れなかったことが原因でした。下の地図を見ればわかるように福原は東西に長細く平野が広がり、北はすぐに六甲山系の山々が連なり、南は海という場所であったため、広い平野を必要とした都が建設できなかったのです。
それならばということで、より平地が確保できる福原の東にある昆陽野こやの(現在の大阪府伊丹市)や西にある印南野いなみの(現在の兵庫県加古川市)に都を作ってはどうかという話が出て検討されはしましたが、話は二転三転、都地の選定がなかなかできずにいたのです。

ちなみに、この間、後白河法皇は平教盛のりもりの邸宅を、高倉上皇は平頼盛よりもりの邸宅、安徳天皇は清盛の邸宅を仮の御所として過ごしていました。これでは遷都とは名ばかり、皇族が離宮に長期滞在しているのと何ら変わらない状況だったのです。

結局、都は平安京の半分にも満たない規模に縮小した上で、大輪田泊おおわだのとまりもその範囲に含めた福原周辺に造られることで落ち着きましたが、それはそれで問題が次々と起こることになりました。

まず1つ目の問題は福原京の狭さゆえに起こる問題で、八省はっしょう公卿くぎょうたちの宅地をどうするのかということでした。

八省というのは、中務なかつかさ省・式部しきぶ省・治部じぶ省・兵部ひょうぶ省・刑部ぎょうぶ省・民部みんぶ省・大蔵おおくら省・宮内くない省の8つの省を指す中央行政官庁のことで、政治の中枢。これがなければ都としての機能は不十分です。さらに公卿たちの宅地も用意しなければなりません。彼らがいないと政策決定に差し支えが出てしまうからです。彼らの政治力なくして平家と親平家の貴族たちで政治を行うのは到底未熟なものであり、色々支障をきたすことは明らかでした。実際、京都にいる公卿の藤原兼実かねざねのもとには度々福原から意見を伺う書簡が届いたり、実務官僚であった吉田経房つねふさをはじめ様々な人が兼実を訪ねたりして意見を聞いています。

この問題については、公卿たちの宅地を狭くはなるものの用意することとし、八省はそのまま京都に残すという方針が一旦示されたものの、結局はこれより2ヶ月後の8月末、再来年をめどに八省も福原へ建設することとなりました。

そして2つ目の問題は大嘗祭だいじょうさいをどこで執り行うのかという問題である。
この大嘗祭というのは新しく即位された天皇が初めて行う新嘗祭にいなめさいのことで、即位の大礼より重要とされる行事で、決して疎かにできないものでした。ところが、福原は内裏だいり(天皇の住まい)すらできていない状況であり、このままでは大嘗祭が行えません。公卿たちからは大嘗祭まで期間がないため従来通り平安京にて執り行うべきだという声が上がりました。特に公卿の藤原兼実(九条兼実)は朝廷の儀式・典礼に詳しく、かつて離宮で大嘗祭を行ったという前例はないとして、京都での開催を強く勧めます。
しかし、清盛は大嘗祭を福原で何としても行いたく、京都での開催を拒みます。大嘗祭が一代一回のみ行われる大祭であることから、清盛はそんな重要な祭を福原で開催してこそ、福原がこれから続くであろう安徳天皇の皇統の都であることを示す一大デモンストレーションとなると考えていたのかもしれません。

結局、この大嘗祭も色々検討された挙げ句、8月になってから来年福原で開催するということで延期と決まりました。福原の内裏が期日までに完成できないことが判明し、今年中には大嘗祭を開催できないことが確実になったためでした。

そして、3つ目の問題。
それは肝心の高倉上皇が遷都から1ヶ月を過ぎた7月半ばに病に倒れ、政務もほとんど取れない状況となってしまったことでした。住み慣れない環境と福原京をめぐる混乱で心労が重なり体調を崩されたのかもしれません。ともあれ、高倉上皇の不調は平家に暗い影を落としていくことになりました。万が一、高倉上皇が亡くなるということになれば、まだ幼少の安徳天皇では政務が取れないため、平家にとっては都合の悪い後白河法皇に政治介入させる隙を与えることになってしまい、そうなると平家主導の政治はまたやりづらくなってしまうからです。

このように、福原京をめぐる様々な問題は急な遷都による準備不足が様々なことに支障をきたしていることを如実にあらわしており、それに伴って平家主導の政治すらうまく立ち行かなくなっていったのです。

なお、この清盛による急な福原京遷都は様々な人々に複雑な感慨を与えました。そんな感慨をうかがい知ることができる歌が何首か残されています。
 
西行(『西行上人集』より)
福原へ都うつりあると聞えしころ、伊勢にて月歌よみ侍りしに
  雲の上やふるき都になりにけりすむらん月の影はかはらで
 
平親宗(『平親宗集』より)
遷都のころ、月明かかりければ、肥後守資隆がもとへいひやる
  みなひとの思ひすてたるふるさとに月もろともにすむ身とをしれ
 
藤原経家(『藤原経家集』より)
福原へ都うつりありしに、十月にこの京にかへりたるに、雪降りたりしつとめて、新都へ、人々、つかはしし
  いつしかと花の都の名をかへてゆきふるさととなりにけるかな
 
平経盛・藤原実定 (『平経盛集』より)
福原の都にて、左大将〔藤原実定〕、宿所近く侍りしに、鹿のなくを聞きて、よみて、つかはしける
 聞くらめや枕に鹿のなく声をふるき都はかくはなかりき (経盛)
返歌
 思へただ聞きもならはぬさをしかの枕になるる秋のあはれを (実定)
 
平経盛・顕昭 (『平経盛集』より)
福原遷都の時、顕昭、古京に侍りしが許へよみてつかはしける
 みな人は花の都へくるものをなほふるさとの秋をしのぶる (経盛)
返歌
 心をば都の秋にたぐへしをふるさと人といふぞあやしき (顕昭)
 
惟宗広言 (『惟宗広言集』より)
福原京に都遷り侍りしころ、故郷暮秋といふことを人々よみ侍りしに
 うつりゆく都の方をしたひてや秋もこよひは西へくれぬる
 
平経正・源有房 (『有房集』より)
都遷りの年の秋、野分の、おひたたしくしたるつとめて、経正の許より
 問へかしなまだ住みなれぬ都にて野分にあへる今朝の心を (経正)
返歌
 住みなれぬ宿にぞわくる言の葉ぞ野分の風のつてもうれしき (有房)
 
このように、これらの歌から平安京への未練や福原京になかなか住みなれなかった心情が読み取れます。とりわけ、平経盛・経正、源有房といった平家の一員や親平家の人物の歌にもそのような心情が表れているのが興味深いです。

また、この清盛による福原京遷都は都の公卿ばかりでなく、政治に直接関係のない都の住民にとっても歓迎できたものではありませんでした。

鴨長明かものちょうめいも著書『方丈記ほうじょうき』の中でこの遷都を批判的に記しており、急な遷都は人心を惑わすものとなっていたことがうかがえます。
さらに、この頃猛威をふるっていた干ばつなどの天災も重なって、徐々に広まりつつあった社会不安に拍車をかけることとなりました。そしてそうした状況の中、東国で反乱の火の手が上がったとの知らせが平家や都の人々のもとへ届きます。この叛乱が平家の御世を終わらせる治承~文治の内乱の本格的な始まりだったことは、当時平家も都の人々も知る由もありませんでした。

注)
※1…上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次『院政と平氏、鎌倉政権』 日本の中世8 中央公論新社 2002年 p.113

《参考文献》
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
市古貞治 編、浅見和彦・小島孝之 校注・訳
『方丈記・宇治拾遺物語』日本の文学 古典編26 ほるぷ社 1987年


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